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夏目漱石『こころ』をどう読むか⑳ アイスクリームは食べたか? ビールは飲んだか?

アイスクリームを食べたのか

 学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ぼっちになった私は別に恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである。(『こころ』夏目漱石)

 宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。(『こころ』夏目漱石)

 漱石という作家は相当に書き方を研究した作家です。何を当たり前にと思うかもしれませんが、案外読み飛ばされているのが、こんな工夫です。最初の文章、意味としては友人の家は資産家だがそう高い宿を取ったわけではない、という意味ですよね。ただそう書かないんです。書かないで読ませています。

 次が迷いますね。「私」は玉突きをやり、アイスクリームを食べたのか。スマホがないから行っていない場所への運賃は解らない筈。宿の者に聞いたところによると、と書いていないので「私」は玉突きをやり、アイスクリームを食べたように思えます。はっきりとは解りませんね。はっきり解らないように書いています。この書き方は徹底しています。いろんなことが書かれないで読まされる仕組みです。ですから「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされているとか、そういう部分だけが曖昧にされているのではないという事です。冒頭に「筆を執っても」「世間を憚る」とあるのに「私」の手記が公開されていないと言い張るのはどうかと思います。新聞小説を書いていると明記されなくても、書かれていることから書かれていないものを読まなくてはなりません。それでも学生の身分で泊りがけの海水浴に出かけて玉突きをやり、アイスクリームを食べたとしたら随分ハイカラですね。このアイスクリームが後に先生の家で自家製として出てくるので、先生の家はハイカラという理屈になります。

 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調える買物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場へ連れ込んだ。私はそこで麦酒の泡のような彼の気焔を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。(『こころ』夏目漱石)

 殆ど生活のない「私」ですが友達は何人かいたようですね。

 この「なにがし」と「私」は麦酒を飲んだのでしょうか? どうも飲んだような飲んでいないような感じですね。私の場合、お腹が膨れるともう麦酒が入りません。お腹が膨れたのちは、どうしてもチューハイになります。他の人はどうなのでしょう。ここも漱石ははっきり書きません。気焔を麦酒の泡に例えるのもちょっと変わっていますね。二人は四時間くらい飲んだのでしょうか。こうした感覚、宵の口から十二時過ぎかと言う感覚も丁寧に抑えた方が良いでしょう。

 どなたか「私」には友達もいなそうという感覚を持っていた人がいますが、ばったり会って四時間飲めば友達でしょう。

何回言ったか

 たしかその翌る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠っていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。(『こころ』夏目漱石)

 この精神的に向上心のないものは馬鹿だという台詞を「Kの口癖」だと勘違いしている人がいなかったでしょうか。一万人に嘘を教えた先生でしたか。先生が嘘を教えていたこと、その先生には国語力がない事は太字の部分で解かりますよね。しかし生徒さんは先生が間違っていても指摘できません。完全に干されるからです。脅されるからです。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と何度も言われたら喧嘩になりますよ。侮蔑に近い言葉というところを見逃しているから変な解釈・変な記憶が生まれてしまうのです。いいですか、こんな言葉を見逃すのは馬鹿です。そう言われると腹が立つでしょう。馬鹿は「あほやなあ」とは違うのです。国語力のない国語教師は馬鹿だと思います。しかし面と向かっては言いませんね。そういうことをKは言っているのですよ。

 どうですか。これで覚えられたでしょう。

先生は世捨て人か

 そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外の二、三名と共に、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。(『こころ』夏目漱石)

 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向いで話をする機会に出合った。先生はその日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。(『こころ』夏目漱石)

 先生を「世捨て人」のように勘違いしている人もいませんでしたでしょうか? このように先生には付き合いがあります。友人があり、礼儀や義理があります。先生は世捨て人ではありませんね。社交的な人ではないにせよ、それなりの付き合いはありますよ。

先生は何歳か?


 先生の遺書の通りだとすると先生は大正元年に亡くなります。しかし先生の年は解りません。先生と「私」の年の差は明確ではありません。英語版を読んだ人がかなり年寄のように見做していましたが、まだ奥さんが妊娠可能な年齢だとすると、三十代と思われ、先生と奥さんの年齢差が五歳から七歳と考えると四十四歳から四十七歳というところでしょうか。先生が大学を卒業して間もなく結婚したとすると、その時点でお嬢さんは結婚適齢期と考えられます。いや、その前に、奥さんがお嬢さんの結婚について先生に訊ねているので、お嬢さんはその時点でもう十八歳になっていたのではないかという感じがします。先生と結婚した時お嬢さんが二十歳になっていたとしたら、先生ももう少し若くなります。四十二から四十五くらいでしょうか。「人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」というからにはそのくらいでしょうか。

 お爺さんではないでしょう。

 先生と「私」の年齢差は解りません。解らない様に書いています。わざとそう書かれています。未亡人の夫は日清戦争で亡くなったとされます。日清戦争は明治二十七年から二十八年です。先生が下宿に入る時点では、戦争直後という感じがしません。少し落ち着いていますね。先生が下宿に入るのが明治三十年だとするとKが死ぬのが明治三十二年?

 人力車の車輪にゴムが使われるのは明治四十年代です。万世橋は明治三十六年(1903年)に現在の場所にかけ替えられます。小川町が古本屋街になるのは大正二年の大火の後の事です。猿楽町、神保町、小川町、万世橋、明神、本郷台、菊坂、小石川で三区に跨がるのは、千代田区、神田区、文京区だとして、やはり年代の特定はできません。

 東大が明治十年、帝大が明治十九年なので、帝大と言う文字があれば先生が卒業するのは明治二十三年以降という事になるのでしょうが、作中に「帝大」の文字はなく「大学」とだけ書かれており、未亡人の下宿を探すのが「本郷辺に高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから」とあるのでもう少し前でもいい訳です。

 どうも漱石はわざと解らない様に工夫していますね。「私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。」と曖昧にしているのです。「あなたは幾歳ですか」と訊かれてもすこぶる不得要領のものなのです。

 こうしてわざと解らない様に書いています。


浄土真宗だからではない

 Kは真宗寺に生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠こもっているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害げになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。(『こころ』夏目漱石)

 どなたかKは真宗の寺に生まれたので「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という考えを持ったというようなことを書いていましたが、そうではないですね。浄土真宗は少し緩い宗派です。Kの信条は宗派の性質ではなく独自のものです。「しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。」と書いてあるのをちゃんと読まないといけませんね。一口に仏教と言えども仏の概念からして様々なので、例えば教師なら少しはそういうことも調べた方がいいかもしれませんね。ただ作品をちゃんと読めば書いてあるので、Kの信条はプラトニックラブも許さない独自なものだったと理解する必要があります。







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