川上未映子の『夏物語』をどう読むか⑰ 忘れるよりも
仮に私に私生活や体験なんてものがあるとして、これまで生きてきた中で一番よい瞬間というのは「やわらかい」女の人と歩きながら話した時間なのではないか、とそんなことを思った。この「やわらかい」というのは勿論くねくねしてるとかそういう意味ではなく、「ぎすぎす」の反対だ。何でも受け入れてくれるというわけでもなく、こちらもそれなりに遠慮や気遣いはしながらも、全然警戒させないやわらかさこそ女性だけが持つ魅力なのではないかと思う。それは甘えとも「たおやか」とも違う。凛ともしていない。ただやわらかい、そんな夏子が終章にいた。
話はスライダーのようなハッピーエンドに落ち着いた。逢沢と会い、思い出話やボイジャーの話——それは何もない宇宙空間を飛び続ける健気な探査船だ——をしている最中の夏子はこれまでとは全く異なる雰囲気を漂わせる。それがやわらかさだ。
言葉の選択にはいくらでもほかの候補があり得た。逢沢の返事もそうだ。しかし「また新幹線で、東京に戻ったと思います」は、夏子にとって逢沢が自分と会うためだけに必死に右往左往しているさまが見て取れる抜群の返しだ。「大阪城でも見物しようと思っていました」でもいけないし、「ハウス食品のカレーパンノヒを買って帰るつもりでいました」でもいけない。女性からやわらかさを引き出すのは、結局男の態度なのだ。
何故なら逢沢は世界で一番安全な場所である観覧車に乗った後、夏子に「僕の子どもを産んで貰えないだろうか」と言うのだから。その態度はあくまでも紳士的だが、言っている内容そのものは、変態精子男恩田の言ったことと変わらない。「僕ので良ければ使いますか」ではないにせよ、少なくとも「君とずっと一緒にいたい」でも「君のことが好きだ」でもないのだから、それはありきたりの愛の告白ではない。そういう形でつながってほしいという提案であり、遺伝子で繋がるというだけのことであれば、それこそ精神的なつながりはどうでもいいってこと? などとぶち切れられてもおかしくはなかったのだ。
そして夏子はついにお好み焼きを食べる。
これまでがんとしてお好み焼きを食べなかったのはこの為だったのだ。最終章でお好み焼きを食べるために、これまではパンや納豆ご飯やスパゲッティやあげくの果てには「簡単なもの」などで誤魔化してきたのだ。
なんでお好み焼き食べへんねんと読者に負荷をかけておいて、最後に一気に開放してきたっちゅうわけや。やるなあ、川上未映子。
九月半ばに善百合子にメールし、夏子と善は会うことになる。夏子は「忘れるよりも間違える方を選ぼうと思う」と善に告げる。
二年後の夏、遊佐と会った夏子は妊娠している。逢沢と事実婚の関係にあると偽り、人工授精(結局あれはしなかったのね? ここがスライダー。)で妊娠したのだ。人工授精の保険適用が始まるのは令和四年四月からのことで、その時点ではまだ自費診療だ。八月、夏子は無事出産し物語は閉じる。
そして仙川涼子の言葉、
この「凡庸」が間違いであることが解る。ここまでの夏子の体験は決して凡庸なものではあり得ないだろう。ただ何となく勢いでできちゃいましたという話でもない。
そして遊佐の「夏目はそれで本を書けばいい」というアドバイスが、『夏物語』という成果としてメタフィクショナルに実現したことにもなる。女が子どもを産むというありきたりのような話がこうまでアクロバティクでエモーショナルに紡がれるとは、その時はまだ予想も出来なかった筈だ。ばっちい、気持ち悪い話でもなくなった。
さらに最終章で語られる夏子の幼い時の話の中で、貧乏でさえ本質的な問題ではなくなる。
誕生日をお好み焼き屋で祝うことは貧乏ではない。その程度のことで人は幸福を感じられるものなのだ。その程度の幸せに辿り着くのも並大抵なことではない。
夏子の身辺雑記は凡庸なものではなかった。
[余談]
それにしても逢沢はその日そのまま新幹線で東京に帰ったのだろうか? たこ焼きを食べもしないで?
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