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夏目漱石の『門』における三つ目の門 笑うかどには福きたる

 夏目漱石作品のいくつかは、子をなすかなさないかという問題を巡って書かれてきたとも言える。『明暗』ではおそらく一度しか交接セクシャルインターコースがない。

 四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂いを至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな焔に変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧るとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。(夏目漱石『明暗』)

 きわめて抽象的な表現ながら、ここでは津田とお延の間に初夜があったことが回想されているようだ。しかしその後、津田はそのことがさして面白くなかったらしく、洋書を読むふりをして夫としての務めを果たさない。お延の「空想」とは子を持つことだろうか。半年後なにもない、つまり妊娠の兆候も二回戦もなければ、子を持つことはできない。小林と津田とのホモセクシュアルな関係が疑われる設定だ。最初の作品が『吾輩は猫である』であることから、最後は「吾輩もネコである」と終わるのだろう。タチは相手が女でも代用が利く。ネコはそうはいかない。

 妻の母は時々気拙い事を妻にいうようでした。それを妻は私に隠していました。しかし自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。妻から何かいわれたために、私が激した例はほとんどなかったくらいですから。妻はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。(夏目漱石『こころ』)

 これも抽象的で解り難いが、要するに義母が静に「あっちの方はどうなっているの、生卵を食わせたらどうなの、山芋とか、そうそう鰻飯でも取りましょうか」と言っているわけで、先生に対しては「全くお酒なんか飲んで、役に立たないんじゃしょうがないじゃないの」と思われていたという意味なのだろう。つまり先生と静はセックスレスである。

 それに対して『道草』では不細工な女の子が立て続けに三人生まれる。逆に『門』では子供が生まれない。頑張っているのに立て続けに流産してしまう。道草とは寄り道で本質的ではないという意味である。門とは「かど」とも読み、「家」という意味でもある。

 さて現在でも本土において、呪術をそのまま伝承させるのは越後の瞽女(ごぜ)と東北の「いたこ」であろう。
 後者は恐山の頂上で死人の口よせをすることで知られているが、呪術をかけるのは奥内(おくだい)さまとよばれる女男二体の白木神である。この「おしら神」については、『月の出羽路』という江戸期の本には、「桑樹の枝にて陰陽二神をつくり絹布に包み秘し隠し、巫女これを左右の手にしつつ、祭文ばらいをとなえて祈り、加持呪術す」とあるのが引用され、柳田国男の著でも、養蚕の神のごとくにも扱われている。
 だが、これは違うようである。上州の野沢あたりでは、桑ではなく楡[にれ]や楢[なら]の木になっていて、神棚にあげたり門口にうちつけて、これを「おかどさま」という。
 今日の用語法では、門がおかどだが、そこでは女体が「おッか」で、「ど」は奴隷のドらしく男体を意味し、猿女の名残りを今もとどめている。そして、「おかど=女夫」のことで、「笑う」意味も、笑い絵というごとく、ある行為を意味するからして、「笑うかどには福きたる」というのが、今も夫婦和合を願う呪術とされている。(八切止夫「現行呪術」より)

 つまり「門」とは夫婦和合の家の意味である。そう思ってみれば『虞美人草』からそもそも漱石作品は「家」の話でもあった。「家」の話でないのは『野分』や『二百十日』くらいで、後は『坊ちゃん』の「おれ」に女気のないことが気になるくらいか。『道草』では描かれないが、(描かれるはずもないが)、健三は細君と何度も何度も交接していたのである。『門』でも宗助は御米と何度も何度も交接していたのである。つまり三つ目の門とはロックンロールである。しかし福は来ない。










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