夏目漱石作品のいくつかは、子をなすかなさないかという問題を巡って書かれてきたとも言える。『明暗』ではおそらく一度しか交接がない。
きわめて抽象的な表現ながら、ここでは津田とお延の間に初夜があったことが回想されているようだ。しかしその後、津田はそのことがさして面白くなかったらしく、洋書を読むふりをして夫としての務めを果たさない。お延の「空想」とは子を持つことだろうか。半年後なにもない、つまり妊娠の兆候も二回戦もなければ、子を持つことはできない。小林と津田とのホモセクシュアルな関係が疑われる設定だ。最初の作品が『吾輩は猫である』であることから、最後は「吾輩もネコである」と終わるのだろう。タチは相手が女でも代用が利く。ネコはそうはいかない。
これも抽象的で解り難いが、要するに義母が静に「あっちの方はどうなっているの、生卵を食わせたらどうなの、山芋とか、そうそう鰻飯でも取りましょうか」と言っているわけで、先生に対しては「全くお酒なんか飲んで、役に立たないんじゃしょうがないじゃないの」と思われていたという意味なのだろう。つまり先生と静はセックスレスである。
それに対して『道草』では不細工な女の子が立て続けに三人生まれる。逆に『門』では子供が生まれない。頑張っているのに立て続けに流産してしまう。道草とは寄り道で本質的ではないという意味である。門とは「かど」とも読み、「家」という意味でもある。
つまり「門」とは夫婦和合の家の意味である。そう思ってみれば『虞美人草』からそもそも漱石作品は「家」の話でもあった。「家」の話でないのは『野分』や『二百十日』くらいで、後は『坊ちゃん』の「おれ」に女気のないことが気になるくらいか。『道草』では描かれないが、(描かれるはずもないが)、健三は細君と何度も何度も交接していたのである。『門』でも宗助は御米と何度も何度も交接していたのである。つまり三つ目の門とはロックンロールである。しかし福は来ない。