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復讐ではないな 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む82

ウィーンの精神分析学者の夢の本


 自分には無意識はないと言い張っていた三島由紀夫が、こうしてフロイトを持ち出しているだけで興味深い。

 もちろん本多はウィーンの精神分析学者の夢の本はいろいろ読んでいたが、自分を裏切るようなものが実は自分の願望だ、という説には、首肯しかねるものがあった。それより自分以外の何者かが、いつも自分を見張っていて、何事か強いている、と考えるほうが自然である。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 夢は願望充足である、とフロイトは言う。従って試験で焦る夢も願望充足であらねばならないことになる。そんなことは本当に求めていたことなのかと疑問が沸く。誰かに不当に嫌がらせをされ腹を立てて目覚めることがある。どうも夢は願望充足だけではありえない。
 しかし「自分以外の何者かが、いつも自分を見張っていて、何事か強いている」という発想の方がむしろ不自然なものではないか。もしもそうであるならば鼻くそをほじることも、暗証番号を入力することもできない。

 本多はやはりなにか超自然的なものを信じすぎているように見える。ただしそれを「超歴史的、あるいは無歴史的なもの」と言ってみる。

 考えても見れば歴史と意志の関わりの問題が全巻を通じた本多の最大のテーマであった。

 勿論ここにはマルクス的唯物史観などが挟み込まれる余地はない。生産様式や産業の在り方が動かす歴史ではないものを指して、本多は歴史と言っているように見える。

 そう思ってみると三島文学はマルクスとフロイトという毒に犯されなかった貴重なものに見えてくる。この点もやはり日本共産党寄りの発言を繰り返す平野啓一郎の指摘しないところである。

 反対にマルクスとフロイトという毒は現代文学を長らく激しく蝕んできたように感じられる。ここではその歴史を詳細に振り返ることはしないが、三島由紀夫が独自の視点でこの二つのもの、唯物史観と精神分析を拒絶したところだけごく簡単に確認したい。

 例えば『美しい星』の羽黒真澄の専門は法制史。ここには大蔵省に入ったからには東大法学部をかなりの席次で卒業したと思われる三島の自負の投影があろう。元裁判官であり弁護士である本多に関しても同じことがいえる。大蔵省に入った席次なんだから准教授や裁判官になることくらい簡単だぞと。それと法律家としての持論として明確には展開されていないところではあるが、例えば「税制が世の中の仕組みを決める」といった程度の意味で、人間社会というものを全体的にコントロールしているのは法体系だという意識は、ほかの学問を専攻したものよりも確実にあっただろうと思われる。

 従って人間を資本家と労働者に分けて、人間を労働力に置き換えて、価値を生産するものと考えるやり方が、本多にはまるで通用しない。実際高級官僚は労働で価値を生まない。弁護士であった本多も法律の気まぐれで莫大な資産を手にし、投資によりさらにその資産を増やしている。本多の経済学にマルクスの入り込む余地はない。従って唯物史観も通用しない。
 本多はそう言っていないが、大学を卒業すれば五位の冠位を得られる松枝清顕や、右翼の看板で金が集まる飯沼や、タイの王女様や、そして本多自身にとってマルクス思想は何ともぴんと来ない話でしかないのだ。

 論理と富が合致しないことぐらいわかり切っているが、さりとてこの世を論理化しようとする試みには一向関心がなかったから、革命は他人の仕事だった。透にとって「平等」はという観念ほど我慢のならぬ観念はなかった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 この471ページに現れた透の考え方には三島由紀夫のマルクス批判が含まれていよう。この批判は経済の面から再度念押しされる。

 自由主義の経済学から美しい予定調和の夢が崩れたのはずいぶん昔だったが、マルクス主義経済学の弁証法的必然性もとっくに怪しげなものになっていた。滅亡を予言されたものが生きのび、発展を予言されたものが、(たしかに発展はしたけれども)、別のものに変質していた。純粋な理念の生きる余地はどこにもなかった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 ここで「(たしかに発展はしたけれども)」と言われているところは、今の若い人たちには何のことなのか解らないと思う。1964年に出版された『毛主席語録』というものは世界中で翻訳されて、日本でも『毛沢東語録』として若者たちに盛んに読まれていた。(ちなみに1969年の庄司薫の『さよなら怪傑黒頭巾』の冒頭は『毛沢東語録』の「君たちはしっかりつかむ必要がある」という引用でオナニーをあきらめる話である。)1970年代日本では稲穂の上に立つ毛沢東の写真などが流布され、毛沢東の神格化というものがあった。中国は毛沢東という偉大な指導者の下で、人がその上に立つことのできるほど稲穂が実っていたと信じる人が少なからずいたわけである。
 大体中国のことが正しく報道されることはない。

 おそらく三島由紀夫も中国のことは誤解したまま死んだ。この「(たしかに発展はしたけれども)」毛沢東の嘘を信じた言い澱みだと考えられる。しかしこの感覚そのものは今ではまるで見えなくなっている筈のものである。

 しかしまあ、三島自身は自由主義経済の行方についてはしっかりと掴んでいたようで、明確にマルクス的なものは拒否できている。それはあくまで理論的にというより実感としてという立場である。

 左翼活動は当然嫌悪している。

 透につけた家庭教師古沢が「過激派左派の一セクト」に属していることが解ると本多は早速古沢を追い出す。(それは透の密告をきっかけに判明した事だった。)


 そしてフロイトの精神分析はどうか。

 実はこれも三島由紀夫にはぴんと来ない話ではなかったかと私は疑っている。後期にはあやふやになるリビドーが概念なのか実体なのか曖昧であるというだけで私にも受け入れられないものであるとして、三島由紀夫の場合には全く違う意味でぴんと来なかったのではないかと思うのだ。

 出世作『仮面の告白』を式場隆三郎という精神科の医師に送り付けた三島は式場を欺く気満々である。

 フロイト派の精神分析はざっくり言えば無意識下に抑圧されていた感情や記憶を意識化するというもので、多くの場合その抑圧されていたものは性に結び付けられる。つまり多くの患者が性的抑圧のために精神に異常をきたすのだ。
 この理屈は何か人間というものの大変な秘密を暴露するようなものでありながら、どうも三島由紀夫には当てはまらない感じがする。
 それは三島由紀夫の言うところのエロティシズムが常に精神的なもの、観念的なものであり、三島自身が「俺はP感覚だ」とは言いながらも、ありきたりな中高生のような下半身の疼きというものとは無縁に見えてしまうからである。
 確かに『豊饒の海』に何度か現れた突然の自涜は、三島がありきたりな中高生のような下半身の疼きというものが人間にはあるのだという理解には達していたことを示している。しかし例えば村上春樹の『国境の南、太陽の西』と三島由紀夫の『仮面の告白』を引き比べてみた時、後者にはまるでリビドーというものが欠落しているようにさえ感じてしまうのである。『仮面の告白』の主人公には一日三回自涜するリビドーがない。無から神春樹自身より二つ年下に設定されたハジメ君にはそれがある。精神的なエロス、観念的なエロスではなく、不随運動のような腰のかくかくがある。
 三島由紀夫に在り来たりな性欲がないというわけでもなかろうが、どうも三島作品はフロイトでは解けない。
 リビドーがなければ、そして無意識がなければ、フロイトの精神分析は成り立たない。
 この三島由紀夫の言うところのエロティシズムが常に精神的なもの、観念的なものだ、という特徴がフロイトを不要にしているように見える点、この点はもう少し掘りたいが別の機会としよう。

ルッキズム


 三島自身のルッキズムは否定しようがないが、ただ、絹江の不幸は、社会そのもののルッキズムを通じて描かれている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 時代や社会を理由にルッキズムを庇うやり方はそろそろ見飽きて来た。

 そろそろ我々は、美というものの本質、醜さというものの本質についてごまかすことなく語るべきなのではないか。
 例えば村上春樹の『謝肉祭』は時代遅れのおじいちゃんが書いた今更のようなルッキズムに満ち満ちた愚作と見做されかねない。
 では反対に美とはこの世に存在してはならないものなのか。

 決してそうでは無かろう。外見至上主義は一つの差別だと言われながら、この世には確かに醜いものと美しいものがあり、人においても醜い顔というものが確かにある。それを「ない」「誰かの外見を醜いなどと思ったことは一度としてない」と言い張れば何かの責任から逃れられるわけではない。変顔や化粧というものが存在する限り、そこには醜さというものが必ずあるのだ。ルッキズムが禁止されるなら資生堂はつぶれる。

 外見が「平等」であることがあり得るだろうか。

 この問いは時代を超えて問い直されなければならない。

  そして『天人五衰』の読みとしては、ルッキズムの指摘は寧ろ正しくない。

 自分の過度の明晰を慰めるには、他人の狂気が必要だった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 透は絹江の醜さを揶揄って遊んでいたのではなく、絹江がその醜さ故反転しなくてはならなかった世界を創り出すからくり、狂気をこそ必要としていたのだ。ただ醜さにいじけていては絹江には何の価値もない。

 目の前に狂気を眺めること、この体験を我々は三島作品を通じて繰り返し体験して来たのではなかったか。

 三島由紀夫作品をほとんど読めてさえいないのに訳知り顔で三島由紀夫作品について論評してしまう狂気、引用さえ間違えながら三千八百円の本を図書館に売りさばいてしまう狂気、そしてそんな本を称賛する狂気、どこかでそんな狂気の指摘を見つけても「ふーん」と通り過ぎていく狂気、今この瞬間にあなたが反転させてしまった世界の中で美しく見られていることどもが、本当はとても醜いんだよ。

 たわしを散歩させている人を見ると「違うな、何か間違っている」と感じる。しかし文学の周りにはそんな人たちがたくさん群がっている。私だけは違うと思い込んでいる。そうじゃなくて、一つ一つ調べるんだよ。思い込むんじゃなくてまず調べる。あれとこれとを突き合わせてみる。
 考察というのは物事を明らかにするためによく考え調べること
 どれだけ調べたら考察って言えるんだろうね。


帝王の卑俗


 521ページ。「この世には実に千差万別な卑俗があった」として羅列されるリストの中に「帝王の卑俗」が混ざっていた。

ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗……

(三島由紀夫『天人五衰』)

 勿論帝王は天皇ではないが昭和天皇が帝王学を学んでいたのも事実である。

 卑俗な帝王って誰?

大名華族出


 522ページ。

 妻の栲子もやはり大名華族出で、

(三島由紀夫『天人五衰』)

 さすがにここまで徹底されてみると改めてまともな労働者だったのは、飯沼勲の元の仲間の一部と、安永透だけだったように思えてくる。
 天子、侯爵、伯爵、宮様、男爵…、裁判官、弁護士、塾頭、歌人…。王女、五井物産、ドイツ文学者、宮様、…。そして旧藩主の妻が大名華族出。

 まともな労働者がいない。


暗殺


 この全体性ではなく本多の存在について、この程度にまとめられる。

 トマ・ピケティが示した不等式——資本収益率(r)>経済成長率(g)は、今日よく知られるところだが、内閣府の「国民生活に関する世論調査」では、六〇年代半ばに、生活程度を「中流」と答えた国民が八割を超した一方で、三島が目にしていたのは、勤労とは無関係に、ただ利殖によって、ただ時間経過がひたすら財産を増やし続ける富裕層の存在だった。
 本多はまさに、その一人として描かれているが、この時代には、それに対して、勲のように暗殺を企てるほど憤る者もいない。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ともかくこれは分厚くて重たい本だった。

 ピケティでさえ富の再分配を求めているに過ぎないのに対して、平野は「勲のように暗殺を企てるほど憤る者もいない」と何か物騒な思想性をちらつかせる。国民の八割が「中流」ならば貧困問題はおおよそ解決されていて、残るのは格差問題だけである。

 平野の言い分では投資家は誰でも殺されかねないことになってしまうが、本多は「堅実一点張で来たからこそ、財産を失わずにすんだ」だけの老人である。たまたま運よく資産家になっただけで、何か一歩間違えていたら、たちまち無一文になっていたかもしれない。投資家が誰でもリスクなく資産を増やし続けられるわけではないことは、投資家ならだれでも知っていることである。r>g という不等式は基本的な傾向であり、全ての資本家が必ず儲かるという理屈ではない。

 僥倖を得た年寄りを暗殺せよとはいかにもあんまりだ。


復讐?


 つまり、透への教育は、清顕や勲に対する一種の復讐なのである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野啓一郎はコモデイ・イイダで昼弁当を選ぶ警備員のように「復讐」と書いてみる。「復讐」?
 弁当でなくても、パンと総菜の組み合わせでいいなどと警備員は考えない。米とおかずのもっとも適切な組み合わせが弁当であるからだ。パンでは午後の仕事に体がもたない。

 彼らもさうすればよかったのだ。自分の宿命をまっしぐらに完成しようなどとはせず、世間の人と足並みを合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれていればよかったのだ。飛ぶ人間を世間は許すことが出来ない。翼は危険な器官だった。飛翔する前に自滅に誘う。あの莫迦どもとうまく折り合っておきさえすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰えるのだ。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 しかし警備員はバケットとチキンカツという珍妙な昼飯を買い込み、工事現場の仲間のところへ戻って笑われるかもしれない。みんな弁当か、金がないにしてもカップ麺とお握りを組み合わせているのに、よりにもよって堅いパンを選んだ警備員は翌日からフランスパンと呼ばれ、どんなにあれはフランスパンではなくバケットですと反論しても決して認めてもらえることはないのだ。

 そういう意味で平野の言う「復讐」はあからさまな勘違いで、本多は透に「飛翔する前に自滅」しないように知恵を授けているのではないか。

 平野の誤解は恐らくこの文章の誤読によるものだ。

 清顕も勲も月光姫も、一切この労をとらなかった。それは人間どもの社会に対する侮蔑でもあり、傲慢でもあって、早晩罰せられなければならない。かれらは、苦悩に於てさえ特権的に振舞いすぎたのだった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 この493ページの「早晩罰せられなければならない」を平野は「罰せられるべきだ」→「自分が罰してやる」と読み間違えたのだ。本多は「翼を隠さないと罰せられるからうまく隠しなさいよ」と透を教育しているのであって、これは「清顕や勲に対する一種の復讐」ではありえない。

 平野は、 524ページの、このくだりに至る起伏を完全に見逃している。

 今にして本多は思い起こした。清顕や勲に対する本多の最も基本的な感情は、あらゆる知的な人間の抒情の源、すなわち嫉妬だったのだと。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 この「今にして」を無視して、ここで想起されたもの、本多の透に対する嫉妬が最初から見え見えであったかのように読んでしまえば、隠れていたものが現れるという物語を忽ち無意味化しかねない。五井物産の息子に運転手付き自動車の手配を頼む本多は、清顕の行動に対する無私の奉仕者のようであった。またそうあらねばならなかった。それを「本多はこの時激しい嫉妬心故に清顕を後戻りできない禁忌に突き進むよう仕向けたのだ」と書いてしまっては「今にして」が成り立たないということだ。

 本多はまずは善意で、透が清顕たちの轍を踏まないように自分を在り来たりの青年に見せかける教育を与えた。

 透のために翼を隠すように諭した教育が、実は清顕や勲に対する復讐であったと読むならば、月修寺で清顕の非在を確認する本多はわざとらしすぎる。

 はい。やり直し。

[余談]

 思ったより小刻みに勘違いしているところが見つかって、なかなかしんどい。もっとみんなで協力し合うチームみたいなものでやって行かないと駄目だと思う。

 それから自分だけはちゃんと読めているという幻想は一旦捨てた方がいい。

 そんな人はまあ、いないね。

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