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『彼岸過迄』を読む 4348 須永市蔵は何故東京語が嫌いなのか?

  僕も叔父さんから注意されたように、だんだん浮気になって行きます。賞めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに来たとかで、僕の厭な東京語ばかり使って、折々詩吟などをやります。その中に艶しい女の声も交っていましたが、二三十分前から急におとなしくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。夜もだいぶ更ふけましたから、僕も休みます。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 神戸から来た客が何故東京語を使うのかという問題はさておくとして、何故須永市蔵は東京語を嫌うのでしょうか。須永市蔵の言葉は「こてこて」とは言わないまでも矢張り東京語であり、東京語以外の何語であるとも言えません。

「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人なんだが……」と敬太郎が云い出した時、須永と千代子は申し合せたように笑い出した。
君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日にだけ突いて出るの」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これはまあ、東京語でしょう。

 しかしここで須永市蔵の言う「東京語」というのはいわゆる標準語とは少し違うものなのかもしれません。

 須永の家へ行って、用もない松へ大事そうな雪除けをした所や、狭い庭を馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の懐に、ぽうと育った若旦那を聯想しない訳に行かなかった。第一須永が角帯をきゅうと締しめてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄の好きだとかいう御母さんが時々出て来て、滑っこい癖にアクセントの強い言葉で、舌触したざわりの好い愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から重詰めにして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合できあい以上の旨さがあるので、紋切形とは無論思わないけれども、幾代もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に潜んでいるとしか受取れなかった。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この須永市蔵の母親の言葉が江戸弁で、神戸から来た客の言葉は江戸弁が滓取りされた上澄みのような東京語なのだということでしょうか。

「じゃついでだから帰りに小日向へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精になったようですね、この間も他に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中じゅうから風邪を引いて咽喉を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着でございますから……」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こののたくるような直接話法を交えた語りは落語そのもので、当然DeepLなんかはこれを翻訳できません。

I told her to go to Kohinata and visit the temple on her way back home, but she came out to tell me that her mother had become indolent recently, and that she had sent someone else to take her place the other day, and that it was probably because she was getting old. I've had a cold and a sore throat all through the day, and I've tried to talk her out of it, but young people are cautious but somewhat self-centered, and they don't pay any attention to what the old people say. ......

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

帰りに小日向まで行って、お参りしなさいと言ったが、母がこのところ不摂生をしていて、先日も代わりの人を送ったと言いながら出てきて、年取ったせいだろうと言うのであった。一日中風邪をひいて喉が痛いので、説得を試みたが、若い人は用心深いがどこか自己中心的で、年寄りの言うことは全く気にしないのだそうだ。......

 やはり伝聞になってしまっています。このことは須永市蔵の母親の言葉がロジカルではないということを意味しません。昔から重詰めにして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来た日本語をDeepLが理解していないというだけの話です。

 わざわざ「僕の厭な東京語ばかり使って」と書く、須永市蔵の中では育ての母の愛嬌のある語りに対する深い思慕が見られると解釈して良いでしょう。


[余談]

 人生は短い。そしてたった一度だ。読書好き、夏目漱石好きを自認していた人が死ぬ間際、自分は夏目漱石作品をただの一冊も正しく読めていなかったと気づかされることはどれほど残酷なことなのだろうか。
 美禰子の下駄の鼻緒が色違いであることの意味にも、就職活動に飽いた田川敬太郎がビールをぽんぽん抜いた「ふり」にも気が付かず、それで夏目漱石好きを自認している人には、これからどんな残酷な未来が待っていることだろう。田川敬太郎には「むしゃくしゃすると普段あまり飲まない酒を飲む」という性質があり、探偵の不首尾にはむしゃくしゃしていて、それで二日酔いなんだなと読まなければ、話の筋さえ追えていないことになる。

 あるいは『坊っちゃん』に出て來る延岡が山奥ではなく海辺の街であることを知らないまま生きることは幸福なことなのだろうか。いや、そこには馬のような幸福があるだけだ。絵は象でも書くことが出来るが、夏目漱石作品を読むことは人間にしかできない。反省は猿にもできるが、後悔はどうだろう。まだ間に合うのに始めないのは恐怖ゆえであろうか。いや、恐怖はもう提示したはずだ。

 大抵の漱石論者に対して、この記事はテロそのものだったはずだ。しかしあなたの見落としはそれだけではない。
 今ならまだ間に合う。


何故脱いだのか思い出せ。

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