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三島の死と芥川の死

 三島由紀夫の死について深沢七郎は大人の小説が書けない偽者の死だと書いている。そこにはあくまでも政治的に見せかけた三島の死を個人的な死だと切り捨てる視点がある。「シャンデリアの下でステーキを食って、なんでニホンが好きとか言うのよ」という指摘は鋭い。吉村真理ともペペロンチーノを食べていた。村上春樹ではないがどうも三島由紀夫には和食のイメージがない。

 そのことはきわめて個人的な死だとしか言われることのない芥川龍之介の死について考える時思い出してみてもいいだろう。三島由紀夫の自殺未遂は死の一年前である。つまり三島も実は二年前から死に方を探していたのではなかろうか。

 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

 この「死ぬこと」は死ぬか生きるかという話ではなく、方法、場所、家の始末、独りで死ぬか女と死ぬか……という具体的な内容であった。

 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣わけには行かないであらう。)――僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。縊死は勿論この目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。(僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。轢死も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

 僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代とは何か。このことを考えるにあたって短絡は要注意だ。我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。なるほど、そういうものが消えてしまった今でこそ、それは家制度、家長父制、より具体的に言えば、養子として育てられ、実の母に対して愛情を持ちえず、また愛されもせず、新原ではなく芥川を名乗り、吉田弥生との結婚を養父母と伯母フキの反対によって諦めねばならなかったことを指すのではないかと二秒で思いつく。思いついたところで本当にそうかと疑ってみよう。

 実の母の愛情を受けられなかった点は漱石も同じである。その恨みと、何かを取り返そうという試みが『坊ちゃん』には見られる。三島由紀夫は祖母によって母親の愛を遮断された。その恨みと、何かを取り返そうという試みは、どこにも見つからない。芥川龍之介の恨みと、何かを取り返そうという試みは、やはりどこにも見つからない。『鼻』にはない。『羅生門』『芋粥』『藪の中』にもない。大正九年の『捨児』にはむしろ養母たちへの愛情が見える。

「そうしてあなたが子でないと云う事は、――子でない事を知ったと云う事は、阿母さんにも話したのですか。」
 私は尋ねずにはいられなかった。
「いえ、それは話しません。私の方から云い出すのは、余り母に残酷ですから。母も死ぬまでその事は一言も私に話しませんでした。やはり話す事は私にも、残酷だと思っていたのでしょう。実際私の母に対する情も、子でない事を知った後、一転化を来したのは事実です。」
「と云うのはどう云う意味ですか。」
 私はじっと客の目を見た。
「前よりも一層なつかしく思うようになったのです。その秘密を知って以来、母は捨児の私には、母以上の人間になりましたから。」
 客はしんみりと返事をした。あたかも彼自身子以上の人間だった事も知らないように。(芥川龍之介『捨児』)

 これは捨子を自分の子と偽り育てた母とその子の話だが、ここには血縁に対する未練は見えない。捨子の名前は「勇之助」、どうしても芥川龍之介を意識しないわけにはいかない。


 私の家は代々お奥坊主だったのですが、父も母もはなはだ特徴のない平凡な人間です。父には一中節、囲碁、盆栽、俳句などの道楽がありますが、いずれもものになっていそうもありません。母は津藤の姪で、昔の話をたくさん知っています。そのほかに伯母が一人いて、それが特に私のめんどうをみてくれました。今でもみてくれています。家じゅうで顔がいちばん私に似ているのもこの伯母なら、心もちの上で共通点のいちばん多いのもこの伯母です。伯母がいなかったら、今日のような私ができたかどうかわかりません。
 文学をやることは、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代わり実業家になるとか、工学士になるとか言ったらかえって反対されたかもしれません。
 芝居や小説はずいぶん小さい時から見ました。先の団十郎、菊五郎、秀調なぞも覚えています。私がはじめて芝居を見たのは、団十郎が斎藤内蔵之助をやった時だそうですが、これはよく覚えていません。なんでもこの時は内蔵之助が馬をひいて花道へかかると、桟敷の後ろで母におぶさっていた私が、うれしがって、大きな声で「ああうまえん」と言ったそうです。二つか三つくらいの時でしょう。小説らしい小説は、泉鏡花氏の「化銀杏」が始めだったかと思います。もっともその前に「倭文庫」や「妙々車」のようなものは卒業していました。これはもう高等小学校へはいってからです。(芥川龍之介『文学好きの家庭から』)

 祖母の趣味で芝居に連れていかれ、泉鏡花を読んだ三島と芥川の環境はよく似ている。『文学好きの家庭から』を素直に読めば、「実の母に対して愛情を持ちえず、また愛されもせず、新原ではなく芥川を名乗ったこと」は封建時代の影ではないように思えてくる。

 最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪、このくらゐ滑稽な罪名はない。若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖すことであらう。薬局や銃砲店や剃刀屋はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

 山崎光夫は『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』において残された資料を綿密に調べ上げ、芥川の死が睡眠薬の過剰摂取によるものではなく、青酸カリが用いられたものだと突き止めた。またその薬品は隣家の鋳金家・香取秀真から手に入れたものではないかと推察している。また、

     わが子等に
 一人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。
 二従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。
 三小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし。
 四若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。
 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。
 六汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。
 七汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。
 八汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず)(芥川龍之介『遺書』)

…と小穴隆一が頼られている点について、実母ふくの命日十一月二十八日に生まれた小穴隆一を母の生まれ変わりではないかと思っていたからではないかと書いている。

「君は僕の母の生まれかわりではないかと思うよ」と言って、義足をはずして座っている小穴の膝に手をかけ、さらに仰向けに横になると、「たのむから僕にその足を撫でさせておくれよ」と切断されたほうの足に手をかけた。(山崎光夫『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』)

 このともすればホモセクシャルにも見えなくもない光景のその実は、実母に対する愛情の表れなのであろう。従って私は封建時代の影の中、それは家制度、家長父制、より具体的に言えば、養子として育てられ、実の母に対して愛情を持ちえず、また愛されもせず、新原ではなく芥川を名乗り、吉田弥生との結婚を養父母と伯母フキの反対によって諦めねばならなかったことを指す、という思い付きを捨てる。では改めて封建時代の影の中、とは何か。それは「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。」というところにヒントがあるのではなかろうか。大正天皇の崩御は前年、大喪の礼は昭和二年一月である。従って芥川の死は大正天皇に対する殉死ではない。しかし僕に対する社会的条件という文脈から考えると、作家としての立場、日々厳しくなる検閲、そして明確に芽生えてきた反体制的なものとの葛藤があつたことは間違いないだろう。文学的な転機は大正十三年の『桃太郎』であろうことは既に書いた。『羅生門』では太いヒーローであった下人が『桃太郎』では嫌悪すべき太い侵略者にすり替わってしまった。また生活面では大正十四年の長男・比呂志の誕生を指摘せざるを得ない。

「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己のやうなものを父にする運命を荷なつたのだらう?」
 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。(芥川龍之介『或阿呆の一生』)

 ここに明確に表れる生命の否定はまさに「生まれてきてすみません」である。わが子の誕生の瞬間、自らがこの世に生まれてきたことを「何の為に」と悔いるのは、まだ何事も成し遂げず、またこれからも何も成し遂げられないだろうという諦めの境地にある人の態度だ。

 それからばんのごはんはたいていおさしみです。そして兄弟の中では一ばんぼくがすきです。それでときどきいろんなざつしにおとうさんの名がでます。(をはり)(芥川瑠璃子『双影 芥川龍之介と夫比呂志』)

 有名人にもなった、傑作も書いた。しかし芥川龍之介自身は嘗て見下していた田山花袋を超え、嘗て絶賛した谷崎潤一郎に肉薄できたと自覚していただろうか。「夏目先生もまだまだだ」と嘯いていた青年は、「あれが森さんかえ」と漱石の葬式の受付で感嘆した青年は、何かを成し遂げたと自覚していただろうか。そうではあるまい。

 附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

 みづから神にしたい一人だったものが大凡下の一人として自死しようとしている。自ら城山の西郷さん、増上慢の死に狂い、天皇に熱い握り飯を差し上げると息まきながら、最後には何もないところへたどり着いてしまった三島由紀夫の死と、この大凡下としての芥川龍之介の死は、真逆のようでどこか重なって見える。

僕等は時代を超越することは出来ない。のみならず階級を超越することも出来ない。(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』)

※そういえば三島由紀夫の自殺未遂も芥川龍之介の自殺未遂も帝国ホテルでのことだった。






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