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夏目漱石の『こころ』をどう読むか⑮ 蕎麦湯

蕎麦湯

 その晩私はいつもより早く床へ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯を持って来てくれました。しかし私の室はもう真暗でした。奥さんはおやおやといって、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈の光がKの机から斜めにぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元に坐って、大方風邪を引いたのだろうから身体を暖ためるがいいといって、湯呑を顔の傍へ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。(夏目漱石『こころ』)

 こうしてみると、未亡人の奥さんは先生に対して必要以上にとても親切に思えます。まるでお母さんです。着替えを手伝ったり、蕎麦湯を飲ませたりと、ただの下宿人に対する態度ではありません。それを先生の方では気が付かないのであんなことになるのですが、先生ばかりを気が付かないと責めるのは間違いですね。私も昨日まで気が付かなかったのですが、清が「おれ」に鍋焼饂飩や蕎麦湯を食わしてくれたのは、具合が悪く見えた時だったということにはならないでしょうか。
 漱石自身が色黒のやんちゃ坊主の「おれ」同様わんぱくだったのですが、ずっと健康だった訳ではありません。『昔の僕』に清のモデル(の一部)とも言える老婢のことが書かれます。厠に財布を落とすエピソードはそのまま取られたようですが、実家で「苛酷」に扱われた漱石は時に叱られて飯を食わせてもらえない日もあったのではないでしょうか。今では考えられないことかもしれませんが、私が知る限り昭和の時代の躾は「木に縛り付けて棒で殴る」「反省するまで蔵に閉じ込める」というのが当たり前で、明治時代はもっと苛酷だったと思います。

 大体満足に飯が食えたら鍋焼饂飩や蕎麦湯は要りません。鍋焼饂飩や蕎麦湯は体を温めますので、「おれ」が風邪を引いても母親からは放っておかれて、清が世話をしてくれていたとこっそり読者に伝えていないでしょうか。

 湯から上ったら始めて暖ったかになった。晴々して、家へ帰って書斎に這入ると、洋灯が点いて窓掛が下りている。火鉢には新しい切炭が活けてある。自分は座布団の上にどっかりと坐った。すると、妻が奥から寒いでしょうと云って蕎麦湯を持って来てくれた。お政さんの容体を聞くと、ことによると盲腸炎になるかも知れないんだそうですよと云う。自分は蕎麦湯を手に受けて、もし悪いようだったら、病院に入れてやるがいいと答えた。妻はそれがいいでしょうと茶の間へ引き取った。(夏目漱石『永日小品』)

 江戸時代から蕎麦湯は体にいいとされています。ただ腹をすかしたから飲むというものではありません。


ベーコンの二十三ページ

 三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどはむろん読む気にならない。けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、万遍なくページ全体を見回していた。三四郎は二十三ページの前で一応昨夜のおさらいをする気である。(夏目漱石『三四郎』)

 これまで私はこの「ベーコンの二十三ページ」については明確な解釈を避けてきました。しかし改めて夏目漱石作品をざっとおさらいした後で読んでみると、ここにはさして謎はないように思えます。これはシンプルに「何故二十三なのか?」と考えさせる意図であり、三四郎と「おれ」がともに二十三である不思議にかかっていると見ていいでしょう。

 夏目漱石作品では繰り返し歳の勘定がされてきました。『明暗』のようにストレートに問われ、そのまま答えるケースもあれば、『こころ』のように頑として答えずぼんやりとしたままですこぶる不得要領なケースもあります。私は先生の死後、「私」が静に子を産ませたと考えていますが、それは先生と静の会話の中で、静がまだ妊娠可能な年齢であろうことが読み取れるからです。『行人』の直と継子の年齢はお兼の歳と嫁入り時機、直とお兼の関係性(顔見知りではなかったこと)から推測できます。従って一郎の死後も十分再婚可能であろうことが匂わされていることになります。最もややこ
しい『道草』の計算を解いて改めて振り返ると、やはり三四郎と「おれ」が二十三であることは変であり、ベーコンの二十三は「何故二十三なのか?」と考えさせる意図であるという解釈が尤もらしく感じられます。一旦気が付いてみると確かに作中では三四郎の生まれた年が二度問われ、二度とも生まれた年ではなく年齢が答えられる不自然と、広田先生が七歳の子を赤ん坊と言う不自然が健三の生まれの不自然と重なって見えてきます。健三が本当の意味での捨て子だと気が付いてみて、ようやく三四郎の里が福岡でもあり熊本でもある矛盾がわざわざ仕掛けられたものだと理解できます。

 この「福岡・熊本問題」に関しては、福岡生まれ、熊本に下宿と解する向きもありますが、その解釈は「三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。」という記述と矛盾を生じます。豊津は北九州寄りの町なので、熊本五高からたびたび出かけることはできません。

「ええ赤い魚の粕漬なんですがね」
「じゃひめいちでしょう」(夏目漱石『三四郎』)

 この「ひめいち」という呼称は土佐、徳島、中国および九州の東側での呼称で、正式名称は「ホウライヒメジ」です。そして宿帳に嘘を書いたとも言えないことになります。『三四郎』は摩訶不思議な矛盾した話ですが、健三にとってはまず自分自身が摩訶不思議なので仕方ありません。







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