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『三四郎』の謎について37 これは何処の方言だろう?

 漱石全集の編纂に当たっては、小宮豊隆らが夏目漱石独特の文法に苦慮したそうですが、「ぶれ」とも「間違い」とも判別できない独特な表現というものが『三四郎』にも見られますね。

「先生は」
「先生は学校」
 二人が話を始めているうちに、車屋が荷物をおろし始めた。下女もはいって来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物がたくさんある。並べるのは一仕事だ。
「里見のお嬢さんは、まだ来ていないか」
「来ている」
「どこに」
二階にいる
二階に何をしている
「何をしているか、二階にいる」
「冗談じゃない」(夏目漱石『三四郎』)

 中国系の外国人の方がよく助詞をぬかしますね。語順でなんとか意味を決めようとして時々戸惑わされます。

 そしてここ、

二階にいる
二階に何をしている

 は、

「来て、二階にいる
二階何をしている

 ……という意味でしょうが、これは単なる間違いなのでしょうか。

 しかし「二階に火をつけている」と続けば、間違いではなくなりますね。この格助詞の「ニ」の方言の可能性について調べてみましたが

 この記事のように考えていくと、ここも妙な手拍子が起きたと考えるべきでしょうか。

 台所からばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはりすわっていた。(夏目漱石『三四郎』)

 この「おい」は昔は呼びかけにも返事にも使われていて、

 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで、外に何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。(夏目漱石『こころ』)

 ……と『こころ』でも使われています。これは間違いではなく単に次第に見られなった表現ですね。一部でヤクザでは使われているとする未確認情報がありました。

 三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。本でも読んで気をまぎらかそうと思って、鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。そいつをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴である。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなったから、片づけるついでに提鞄の底へ、ほかの二、三冊といっしょにほうり込んでおいたのが、運悪く当選したのである。(夏目漱石『三四郎』)

 この「入れそくなった」が厄介で、

 次の日は空想をやめて、はいるとさっそく本を借りた。しかし借りそくなったので、すぐ返した。あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったからまた返した。三四郎はこういうふうにして毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。(夏目漱石『三四郎』)

 ……という表現も見られます。これは『趣味の遺伝』『門』『草枕』などにも見られる漱石独特の表現と片付けたいところなんですが、

「これを持って帰りな、おじさんは意気地なしでだめなんだ」
「ふん、きれエみたいなことを云うわね」
 お琴は銭を握るとうしろへとび退いた。そして若い毛物のようなぎらぎらする眼でこちらを睨み、憎悪をこめて罵った。
「これを持ってけが呆れるよ、ひとの股へ手を入れて唯呉れるようなこと云やアがる、あたいはそんなあまいンじゃないんだよ、見そくなッちゃアいけないよ」
 そして鼬のように外へとびだしていった。(山本周五郎『嘘アつかねえ』)

 江戸弁? と疑うも、

 その他、遊びの人たちも、慌しくはないが散り散りの中へ交って……御休所と油障子に大きく書いたのを、背中へ背負って、緋めれんすの蹴出しで島田髷の娘が、すたすたと、向うの吹上げの池を廻る処を、お悦が小走りに衝と追って、四阿屋がかりの茶屋の軒下に立つと、しばらくして蛇の目を一本。「もうけ損(そく)なって不機嫌な処だから、少し手間が取れました。」(泉鏡花『卵塔場の天女』)

 それにしちゃあ、使用例があまりにも少ねえってんで、こちとら大弱りでさあ。

「‥‥」何の返事もなかつた。が、やがて獨り言のやうに、「死にさへすりやええのぢや!」
「さうだ、死にさへすりやア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送つてやつたのだが、ね、死にそくなつちやアまた問題が起るぞ。」(岩野泡鳴『毒藥を飮む女』)

 こうなると、江戸弁とは言うものの、ちょいと古い江戸、灰汁の強い江戸弁じゃあねえかと当て推量を始めたところ、

 太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊の爺はまた、指をふりふり、罵詈を浴びせかけた。
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
 老人は、こう唾罵だばを飛ばしながら、おいおい、呂律がまわらなくなって来た。(芥川龍之介『偸盗』)

 この芥川龍之介というのが味噌で、芥川の使う言葉で、「おや」っというものを調べると大抵正しいんですよ。谷崎の「噛んでホキ出す」みたいに。

 ということで念入りに調べたところ、小田原出身の福田正夫や仙台市出身の南部修太郎、山口県出身の林芙美子にも用例が見つかり、「しいそくなう しいそこなう【為損なう】 為損じる 失敗する」は天草弁であることも解って、

 現時点の判断としては、これは漱石の癖などではなく、広く使われているが、頻度の低い表現と見做さざるを得ないのかなあ、と言うところです。明日には判断が変わるかもしれませんが。


[余談]

 一日に何度も、しかも立て続けにグーグルにロボットかと疑われる。お前のとこもロボットにクロールさせているだろよ、と文句を言いたくなる。全く何を警戒しているのやら。














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