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贋物の批評家は贋物の批評家に気がつかない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む61

  時々本物の作家は何十年も先の未来を見越して、おおよそくだらない批評家に渇を喰らわすことがある。夏目漱石が蓮見重彦にそうしたように、三島由紀夫は平野啓一郎に、「バンコックの寺は七百あつた」と言ってみる。

 しかし、それはただおびただしい金と朱の華文を引き立たせるための、純白な画布に過ぎなかつた。ポインテッド・アーチ形の窓々は、内側の紅殻をのぞかせながら、その窓を包んで燃え上る煩瑣な金色の焔に囲まれてゐた。前面(フアサード)の白い円柱も、柱頭飾から突然金色燦然とした聖蛇(ナーガ)の蟠踞する装飾に包まれ、幾重にも累々と懸る朱い支那瓦の反屋根は、鎌首をもたげた金色の蛇の列に縁取られ、越屋根のおのおのの尖端は、あたかも天へ蹴上げる女靴の鋭い踵のやうに、金いろの神経質な蛇の鴟尾が、競つて青空へ跳ね上がつてゐた。これらすべての黄金は、切妻に遊ぶ鳩の白も際立つほどに、熱帯の日光にむしろ暗く輝やいた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 金閣寺が天皇なら、この大理石寺院(ワツト・ベンチヤマポビツト)はハラーマ八世なのかね?

 三島由紀夫ならそう問うのではないか。
 この時ラーマ八世、アナンダ・マヒドン陛下はスイス留学中、第一摂政アチット・アパー殿下は飾り物にされ、第二摂政プリディ・パノムヨンが実権を握っていた。平野啓一郎が「旅行記のような」「描写過剰」というこの場面は、アチット・アパー殿下が大理石寺院に御参詣する前景である。
 殿下のロールス・ロイスが到着する前に、誰かが大理石寺院を描写している。

 たとへば、ワット・ポー。
 十八世紀末ラーマ一世の建立にかかるこの寺では、人は次から次と立ち現はれる塔や御堂の間を、掻き分けて行かねばならない。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 どうもこれは寺の話だ。ワット・ポーは天皇だろうか?「バンコックの寺は七百あつた」とするならば、日本には寺はいくつあるだろうか。約七万八千あると言われる。神社は八万八千あると言われている。そのどれか一つが絶対者であることが可能であろうか。

 菱川はバンコクの正式名称の意味について、

 ほとんど翻訳不可能ですね。それはここの寺々の装飾のやうに、徒らに金ぴか、徒らに煩瑣な、飾りのための飾りにすぎないのですから。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ただ徒に金ぴかなだけの寺を〈絶対者〉だの天皇だなどという批評家が現れないように、三島由紀夫はこう念押ししていた。

 平野啓一郎は自分のことが言われていることに気がつかない。

「すべての芸術は夕焼ですね」

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 菱川はこうも言ってみるが『海と夕焼』に関心のない平野はここにも正面からは反応せず駄弁と書いてみる。

 無論菱川は『海と夕焼』を指さしてなどいない。夕焼けの本質はなくただ終わるだけであり、戯れであり、夕焼雲はあらゆるシンメトリーに対する侮蔑で最も根本的な破壊と結びついているのだと何やら哲学風の警句を垂れるばかりだ。

 平野が例の、

とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか?

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 という前巻の総括に触れる前に、過剰な描写に代わって、——それは冒頭の数ページで止んでいて、「前半」を過剰な描写と総括することはふさわしくないのではないかと私には思える——芸術論が真正面から語られている。

 もつとも微妙なもの、もつとも枝葉末節の気むづかしい美的判断が、(私はあの一つのオレンヂ色の雲の縁の、何ともいへない芳醇な曲線のことを言つてゐるのですが)、大きな天空の普遍性と関はり合ひ、もつとも内面的なものが色めいて露はになつて外面性と結びつくのが夕焼です。
 すなはち夕焼は表現します。表現だけが夕焼の機能なのです。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 こんな屁理屈を云うものは三島由紀夫しかいない。平野はこれを「一種の自己戯画化」と捉えながらも、不自然な駄弁は芸術作品を「世界無(死)」の表現だとする認識にとどまっており、三島自身は作品の絶対化こそ芸術家の「行動」と見做していた筈だとその差を指摘する。

 まさにこの認識こそが、彼が「実に実に実に不快」という心境の説明に用いた二元論であり、行動と夭折に憧れながら、彼が菱川のような人間に近親憎悪を抱き、『豊饒の海』完成のために執筆を続ける自己を正当化した根拠とも言えよう。
 これは、仮に『暁の寺』が未完に終わったとしても、執筆行為が彼の考える「行動」の範疇に組み入れられるのならば、それ自体は美しく完結したのだ、という意味だったはずである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここの理屈は少しわからない。三島の語彙に於いて、特に第四期の語彙に於いて「行動」とは「二十歳で腹を切ったっていいんだから」と、結果的には死に向かう(思想)活動を指し、文学・芸術の対極に置かれる別々のものである。書き続けることは「行動」ではない。

 最後には一つになるかもしれないものを一応別々にやる。文学は文学、行動は行動で両方一生懸命にやる。その「やる」は「行動」ではない。執筆行為は行動ではない。

 平野が二元論と言ってみるのは「二十歳で腹を切ったっていいんだから」という「行動」に対して、芸術の完成は老成を待たねばならないという性質の違いがあるからと考えているからかもしれないが、「行動と夭折に憧れながら」と書いているのはいかがなものであろうか。

 夭折はもうやれないのだ。それはもうどこかになくなってしまった可能性なので、既に憧れることすらできないものではなかろうか。夭折とは早熟の天才が傑作を残して早死にすることである。『豊饒の海』完成のために執筆を続ける自己の中にはむしろ老成には届かないだろうという夕焼こそが見えていたのではなかろうか。

 つまり美しく完結することはもうあり得ないのだ。

 本多は菱川の芸術論を聞き流す。

 すべての芸術が夕焼だつて? そして彼方には暁の寺! 

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 既に平野は「40 「一〇・二一国際反戦デー」以後の急進化」において二部構成の『暁の寺』を俯瞰して、この作品が未完のまま残される可能性もあったことを確認しているので、『暁の寺』において芸術がただ終わるだけの戯れであるなどと言われても、当たり前すぎて、今更何とも反応できなかったのであろうか。

 しかし五井物産の菱川という男からこんな芸術論が弁護士の本多に振り向けられているという状況は、普通なら際立って異質な、注目すべき前振りではなかろうか。考えても見れば菱川を平野は実作をしない芸術家崩れ、贋物の芸術家と規定するが、綾倉家の雅びを学んだ聡子も清顕も和歌の一つでさえ詠んでいないのだ。

 平野は『天人五衰』の時代が三島由紀夫のリアルな時代を超えて、同時進行的に未来へ進もうとしている設定であることを指摘している。

 本多は四十七歳になっていた。このことがすなわち人生の夕焼けを意味していることは今更念押しするまでもないだろう。春夏秋冬で言えば秋であり、人生は既にたそがれている。

 三島由紀夫自身が行動面でかなり差し迫っていた時期にあったことは平野自身が「40 「一〇・二一国際反戦デー」以後の急進化」でくどいほど念押ししている。しかし案外平野は三島の文学については『暁の寺』が未完成で終わるかも知れなかった、という程度の指摘しかしていない。

 平野の区分における第四期の三島に関しては『豊饒の海』執筆開始、『英霊の声』発表後、政治思想運動を開始し、自決に至る四十代とされている。この第四期の中でさらに分ければ『暁の寺』こそは終わるだけの戯れとしての夕焼けであろう。『暁の寺』は中断されるかもしれないというスケジュールに形式的に支配された作品であるだけではなく、夕焼としての芸術であった。そこでは様々なものがだらしなく崩れ、まじりあい、頽廃していく。そういう世界観が描かれようとしたのが『暁の寺』だ。

 三島由紀夫がこの期に及んでそういう世界を描かねばならなかった理由は、シンプルに作品全体の構想、奇魂というデザインの問題であると同時に、昭和三十六年の「薔薇刑」の被写体となることで刺激され、昭和三十八年の『午後の曳航』に漏れていた三島由紀夫自身のセクシュアリティのどうにも押しとどめ難い発露というものもあっただろう。それは売り込みのための告白ではなく、これを書かないと嘘だという思いでもあったことであろう。この点に関して『仮面の告白』に関してはセクシュアリティの問題を淡々と論じていた平野がほとんど触れていないので、後に別に詳細に論じてみたい。今はただ本多が四十七歳になっていたとだけ確認しておこう。

 さて、日米開戦寸前のタイで、寺巡りの観光を終えて、菱川の芸術論を受け流した本多は、例の謎ロジックをもう一度蒸し返す。

 そのむかし感情の戦場に死んだ清顕の時代と事かはり、ふたたび青年が本当の行為の戦場に死ぬべき時代が迫つていた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この言い分の後半はそのままその通り。間もなくたくさんの若者が戦場に送られ死ぬことになる。問題はそれ以前に「感情の戦場」とはなんなのかということ。そして若者がもう行為の戦争では死なないというような楽観的な未来予想ができる状況が大正三年にあったのかということだ。

 繰り返しになるが芥川の『アグニの神』で確認した通り、日米開戦論は日露戦争直後からまず米国において起こり、その後実際に日米開戦が始まるまでの間、繰り返し議論されてきたように見える。

 その魁が勲の死だつた。すなはち転生した二人の若者は、それぞれの対蹠的な戦場で、対蹠的な戦死を遂げたのだつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 それこそ特攻隊の英霊の声なら、勲の焼けバチの死と特攻の戦死をいっしょにせんといてや、それに清顕の死は肺炎による病死とちゃうん、宮内庁と喧嘩してなぶり殺されたら戦死かもしれんけど、と文句を言うかもしれない。

 本多の言い分にはやはり無理がある。そして「転生した二人の若者」という言い分もおかしい。二人の関係を転生した・されたものとして一体に見做しているのかもしれないが、普通の言い方では転生したのはまだ清顕だけで、ジン・ジャンが清顕の転生ではなく勲の記憶を持った勲の転生であることを本多はまだ知らない筈なのである。

 ここが瑕疵でないとすれば、明示的ではない清顕の前世について本多が口を滑らせていることになり、やはり本多には自分に都合のいいように強引に清顕や勲を持ち上げる依怙贔屓の性質があるように思われるところである。

 そして本多は? 本多が死ぬ気配はどこにもなかつた!

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 むしろこちらこそが戯画化ではなかろうか。三十八歳の自分に「何たる奇妙な年齢だろう」と呆れていた本多はついに三島由紀夫の実年齢を超えた。こちらも一編の詩もものさず、死にもしない。

 菱川が贋物の芸術家であるとするならば、本多は「町でよく見かける何でもない人のコスプレをする人」のようなものではなかろうか。そして平野が本多を(誤解する性質も含めての)「認識者」と捉えているのに対して、どうも三島はもっと極端な性質を本多に与えすぎているように思える。

 しかし思へば勲の暗殺と自刃は、二・二六事件にいたつて欄干たる星空を展いた夜の、いはば先駆をつとめた清らかな夕星(ゆふづつ)だつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 これは典型的なダメダメ評論家の言い分ではなかろうか。

 五・一五事件の背景には貧困や経済格差の問題があり、その流れを汲む形で勲が財産家らしい蔵原を暗殺したことは工程は肯定できないとしても一応流れとしては理解できる。

 しかし一方のニ・二六事件の目的は八紘一宇のための親政の実現であり、敵は金持ちではない。ニ・二六事件と勲の暗殺は、暗殺事件であるという形式でしか繋がらない。

 三島は敢えて本多に駄目芸術家ならぬ、駄目評論家を演じさせてはいまいか。
 ダメ芸術家とダメ評論家のどちらが鬱陶しいかという問題ではないが、おそらく二人はシンメトリーとして配置されている。

 日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人達と、フランスかぶれやアングロ・マニアを怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島は本多がこのロマンチックな偏見には服しなかったとしながら「時代が身も慄へるほど何かに熟して、何かを夢見てゐることは明らかだつたから」と本多をこの時代の鋳型、——それは矢張り極めて特殊なものに思えるが、——に取り込んでしまう。

 何かを夢見てゐる?

 八紘一宇?

 岡倉天心の『東洋の理想』は明治三十六年、ロンドンの書肆よりもちろん英語で出版された。その思想は「内からの勝利か、しからずんば外からの強力な死か」と結ばれる。現在生きている私はまさしくその「外からの強力な死」という歴史を教科書的に経てしまっているので、当時の本多の時代感覚、歴史認識には到底辿り着くことはできない。話者がいう「ロマンチック」までは理解できる。しかし「何かを夢見てゐる?」とは世界征服?

日独伊三国同盟と日本の進路


日独伊三国同盟と日本の進路


大東亜の現勢

 得利寺の日露戦争戦没者慰霊祭の回想から始まった筈の『豊饒の海』がいままさにのっぴきならない時代に差し掛かっているのにも関わらず、「認識者」本多は、何か現代の私には見えないものを見ているかのようだ。その認識の差を平野はむしろやすやすと受け容れてしまっているように見える。

 三島にとって、戦争体験とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり、空襲は、その適切な位置づけを見出し得なかった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 後に(「42 空襲体験」において)平野はこう書いてしまう。つまり殺すのは男らしい行為であり、殺されかかるのは意味がない行為という意味であろうか。だから「何かを夢見てゐる?」と言われても引っかからないのか。

 しかし平野がどこからこの「三島にとって、戦争体験とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」という言葉を導き出したのかが私には全く想像できない。

 アメリカと戦争をするらしいですが、もう時期は遅いでせう。独逸はもうぢきへたばりますし、英国と講和を結ぶかもしれません。まさか兵隊にとられないと思ひますが、とられたらどうしませう。いつそワーツと戦争があつて、一年ぐらゐで終わつてくれるといゝのですが。

(昭和十六年、十一月十日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.75)

 少なくとも当時の三島にはそんな勇ましいものはなかった。

 本多は例の誰かを殺して自刃することが真の日本と共に生きる道、という謎ロジックに続けてこうも言いだす。

 思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射してゐる筈だつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 これはニーチェが言うように「民族と宗教の戦争は避けられない」という意味か? 野蛮でなければ民族として残ることが出来なかったはずだという意味か?

 世界中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、日本は明治の文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 続いてこう書いてみる。この「蛮風」がなんのことであるのか私には良く解らない。生き物をなぶり殺しにするような蛮行は鯛やイカの活け造りぐらいのものであろうし、それを明治政府が禁止したという記憶もない。

 その結果、民族のもつとも生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその兇暴な力を揮つて、ますます人の忌み怖れるところとなつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 つまりこれはテロ行為、天中殺、のことを指しているのであろうか。勲の話の流れからはそう読むしかないが、しかし「民族のもつとも純粋な要素にはテロがある」そう読み直してみると、例の絶えざる変革、永遠の現状否定あってこそ民族が存続できると言っているように見え、天皇とテロリストの役割が合致する。

 天皇こそは日本一のテロリスト?

 いかに怖ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 言われているのは勲のことだ。しかしこうまで焼けバチのテロリストが持ち上げられて民族のもっとも純粋な魂であるとまで言われているおかしさに平野啓一郎は気がつくそぶりを見せない。

 テロこそが民族の魂?

 テロリスト以外は穢れた魂であり、民族から排除されても仕方ないと言われているようなものなのに。

 この問題はまだ終わらない。何なら始まってさえいないのだ。

[余談]

 日本の皇族がイギリスばかりに留学していたのに、この『暁の寺』の出だしではタイはスイスに接近している。このタイとスイスの関係はちょっと調べただけでは解らなかった。この辺りも三島由紀夫は相当調べた上で設定したんだろうから「決定版」を名乗るうえでは論じておくべきなんだろう。


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