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千野帽子は漱石作品を語るな



夏目漱石『こころ』は〈無理して読まなくていい小説です〉あなたには

 真面目な漱石論を探しているのにどうしてもおおよそ下らない、殆ど意味のない論文や記事にしか辿り着けないで閉口する。インターネットはそうしたゴミに学ぶ遊びのツールでもあるのだろうか。いささか意地の悪いタイトルのその先にある文章をどれだけの人が余計な感情を容れずに読むことがあるのか解らないが、少なくとも私は冷静に不快である。

「奥泉光『夏目漱石、読んじゃえば?』(河出書房新社《14歳の世渡り術》シリーズ)が出た。これは買いです。」

 この本が基本的に「間違い」だという事は既に述べた。小説など好きに読めばいいとは言いながら、ある程度、ここまでは根拠があり、こう読まなくてはならないという正解がある。だからこそ国語テストというものが成立するのだ。多様に解釈され得るように漱石が意図しているという捉え方ができる一方、明確に仄めかしているところもあるので、そこまでは読めていないといけないというラインがある。珍解釈はいらない。そこまでは読めていないといけないというラインが解っていないのに、このように人に物を教えるように書くのは「間違い」である。しかも子供に教えるように書くのは害悪である。大人を騙せないので子供騙しをしている。

 これは何某かの犯罪に当たらないものだろうか。

 例えば漱石は支那は支那と書く。しかしいとうせいこうと奥泉光は、

 友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、(『こころ』夏目漱石)

 とあるのを中国(中華民国?)と勘違いして「西洋人も出てくるし国際的ですね」と燥いてしまう。となると「国元から帰れという電報を受け取った。」が国際電報になってしまう。これで漱石好きの作家だと自称するので呆れてしまう。もしこの中国を中国地方の事だと読むのがこ難しい読みで、もっと自由な読みが他にあるのだとしたら、そうした他の読みは全て誤読だ。最低限漱石の語彙を前提にしないと書かれていることを理解することができないからだ。

 漱石は簡単を単簡と書く、時々「おなじ」という意味で「一般」と書く。「しかしそれは気性の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。」とも書き、「しかし一般の経済状態は大して豊だというほどではありませんでした。」とも書くので取り違えない様にしないといけない。助詞が付くのが普通の一般の意味で、つかないときは「おなじ」が多い筈です。漱石作品を読む上ではこれは常識ですね。

〈『こころ』は〔…〕「上」と「中」で謎を仕掛けて「下」の遺書のなかで先生と奥さんの関係について「実はこうでした」って明かされても、「うん、もう知ってますんで」〔…〕ネタバレしてもなお面白いという強さがいまひとつない〉ので、〈無理して読まなくていい小説です〉(7章)

「うん、もう知ってますんで」が本当ならそれこそ

①Kは何故自殺したのか?

②Kは何故小刀細工で死んだのか?

③先生が西枕で寝たのは何故か?

④Kが襖を閉めなかったのは何故か?

⑤本当はKはどこまで知っていたのか?

⑥Kは何故雑司ヶ谷霊園に埋められたのか?

⑦先生がだんだん可笑しくなるのは何故か?

⑧「黒い影」とは何か?

⑨Kと先生の間に明示的な同性愛の関係は見られないのに「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」と先生が思わせぶりな事を言ったのは何故か?

⑩「私」と入れ替わりで西洋人が消えたのは何故か?

⑪「私」によって先生が全肯定されるのは何故か?

⑫「私」の先生に対する懐かしみは何ゆえ生じたのか?

⑬「若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。」この間違えた裏、とぞっとするの意味するところは?

⑭「物凄い閃き」とは何か?

⑮先生の言う「私の本意」とは?

⑯「私」は先生を裏切ったか、それとも裏切っていないか?

⑰現在の「私」の状況は?

⑱現在の「静」の状況は?

⑲明治の精神とは何か?

⑳何故先生の妻は「静」なのか?

 …こんなことが即答できなければならないことになるが、果たして彼らにそれが可能だろうか。彼らとは奥泉光と千野帽子である。これらの事に関して私は解る範囲で書いてきた。解らないところも出来るだけ論理的に読んできた。それは殆ど理解されていないか、あるいはとんでもなく見当違いに解釈されているからだ。記事をいくつか遡って読んで貰えれば、そのことは明白であろう。ネタバレどころか、みな曖昧にしか読んでいないのだ。

 私の態度は少し真面目過ぎるのかも知れないが、不真面目というより、自信をもって間違えている人が余りにも多いので、どうしても真面目寄りにならなくてはならないというのが正直なところである。

 それにしても本当にもったいない話だ。こんなに面白い小説を読んで「暗い話だった」としか受け止められない国語力は勝手だとして、満身創痍の漱石が書いた傑作を失敗作だと決めつけてしまい、そのお馬鹿な評価が伝播されて何時か「事実」になってしまったら、それは本当にもったいない。何年後かに「昔は人手の卵巣は食べられていなかったんだって」「もつたいない」と会話されるかもしれないが、それくらい勿体ない。

 ちなみに佐藤ゼミや


羽田さん?

 これらの解説動画には千歳船橋三郎としてコメントをつけてきた。

 この程度の読みで何かを語ろうとするのは流石に恥ずかしいのではなかろうか。ここには「自分はかなり読解力があるでしょ、凄いでしょ」という威張る気持ちが少なからずあろうか。そういうものが見えて中身が伴わないと、私は不快になる。そういうものが夏目漱石作品を徹底して涛してきたことを知っているからだ。





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