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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する169 夏目漱石『明暗』をどう読むか⑱ そう言えば書いていない

彼女はいつでも彼女の主人公であった

「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫を択んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚えはいまだかつてなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 ごく当たり前のように書かれているが、実はこのことこそが津田にとっては当たり前でないことなのである。お延は、

・お延は自分で自分の夫を択んだ
・津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した
・彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた
・その許諾と共にすぐ彼に嫁いだ

 ……と一直線である。普通はそうなのだろうといったん思ってみる。津田が変わっていて少しおかしいのだと。津田は、

・このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう
・おれが貰うと思ったからこそ結婚が成立したに違ない
・おれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに

 こんな訳の分からない無責任なことを言っている。お延の側からは津田との結婚は自然なものだった。津田の側からはお延との結婚は不自然なもののようだ。しかしでは何故津田がお延と結婚したのか、その謎はまだ明かされない。

 ここを無理やり津田の無責任さに付け込んでジェンダーの話にしても詰まらない。男だから、女だからではなく、恐らく津田はきわめて特殊な考え方の持ち主で、自分の主人公でもなく、責任者でもない。

 ただここでお延が津田を愛しているいじらしい妻であり、お延の方には何も裏がないことが解る。ここは主人公が入れ替われば津田からは見えなかったお延の裏側が描かれるべきだという読者の指摘に対して、案外裏がないという賺しで答えているところだ。

自分の過失

 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫も変らなかった。彼女は飽くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享うける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜していた。
 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりもむしろ快よくなかった。それは皆みんなが寄ってたかって、今まで糊塗して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我が」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。

(夏目漱石『明暗』)

 いやいや。ここでお延は「自分の過失」と言ってしまっている。裏があった。つまり、

・津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した

 という一目惚れが「過失」で、今はその責任者として苦しんでいるというわけだ。これはきつい。お延にも裏があったではないか。夫や親戚にはには健気な新妻の姿しか見せていないものの、そこには既に見栄による糊塗があるのだ。セックスレスが物足らないのだ。もっとしたいのだ。しかししてくれない。おまけに痔瘻が再発する。金はない。最悪だ。さらにお延が気が付いていないところで、

・このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう
・おれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに

 ……と無責任なことを考えている。こんな信用できない男はいない。

 何なら清子は津田の性的不能を知らずとも、その万全な主人公足り得ない無責任さには気が付いていて、それで別れたのではなかろうか。現に清子と津田の交際は吉川夫人の手引きによるものだということが明かされている。後はそのことに清子が気が付きさえすれば、津田が開化の良人に相応しい男ではないことは解るはずだ。

 しかしここでふと疑問。

 お延と津田が結婚したのは半年前、清子が流産したのは何時で、そしてその子の父親は本当に関なのだろうか?

茶をがぶがぶ

 膳を引かせて、叔母の新らしく淹れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入いった蟠りが蜿蜒くっていようと思うはずがなかった。造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置について批評しあった。
「来年はあのの横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね」
 お延は何の気なしに叔父の指さしている見当を見た。隣家と地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪をこんもり繁らした根の辺りが、叔父のいう通り疎らに隙すいていた。先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利きかした。
「本当ね。あすこを塞がないと、さもさも藪を拵えましたって云うようで変ね」
 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 岩波は注解をつけていないが、この「茶をがぶがぶ」は糖尿病の一般的な症状で、同じような描写が津田にはないことから津田に糖尿病はなさそうだ。

 この点経験者の漱石は十分意識的だろう。岩波の注解にはたまに病気の説明が出て來る。しかしこういうところには案外気が付いていない気配がある。読者の中にも身近な人に糖尿病患者がいないと気が付かない人がいるかもしれない。

 漱石を読むには、こうしたところを押さえながら読むことが必要だ。


隣家と地続き


 これだと隣の家にも筍が生えるだろう。ここには神経質と気作という岡本の性格が出ているところ。この地下茎はどうしようもなく、防ぎようがない。自由意志と自己決定でどんどん生えて來る。孟宗(藪)は『趣味の遺伝』『野分』『三四郎』『門』『彼岸過迄』などにもよく出て來る。若干荒れた感じのあるアイテムだ。しかしそんな意味でただ持ち出されている訳ではない。


楓を一本植えようと思うんだ


 思えば『行人』では植え替えられた新しい梅の木に直の希望が仮託されていた。

 お重も来き、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室の火鉢に手を翳かざさなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑のみ込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床があって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠から引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった

(夏目漱石『行人』)

 二郎のいい加減な使いによって一郎に植え付けられた直は、植え替えられた梅に希望を見出したい。それを二郎は「無意味」と突き放す。

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯れになるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」

(夏目漱石『行人』)

 直がこう二郎に話す前から、そんなことは「無意味」だったのだ。

 その場面を想ってみれば、こうした植木の話はやはり逸れた話でもないかもしれない。松と孟宗藪と楓、松竹〇、普通〇には梅が這入る。直なら、「梅ではなくて楓なの」と訊くだろう。


語学だけには少し特別の意味があるんだよ

「今日は何のお稽古に行ったの」
 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝らしい顔をしてなるほどと首肯かなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。

(夏目漱石『明暗』)

 語学の稽古に通う継子はまさに三好に嫁ぐ気満々である。ただここで継子の習っているのがドイツ語なのか英語なのかフランス語なのかが解らない。藤井の息子はフランス語を習っていた。第一次世界大戦の最中なので、独逸語を習わせる親は少なかったと思う。しかし英語ともフランス語とも説明されない。ただ「語学」と書かれる。これもいずれどこかで明らかになることなのだろうか。
 あるいはフランス語を習っていたに朝鮮に赴任になるという落ちはないか。

容貌の劣者

「そりゃお前と継とは……」
 中途で止やめた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃いた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女はついに自分を抑えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも……」

(夏目漱石『明暗』)

 容貌の劣者、物凄い言葉だ。これまでそんなことは考えはしなかった。冒頭の方でお延の顔の描写がある。そこでお延は不美人とは描かれていなかった筈だ。

 しかしよく読み直してみると、

・細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた
・細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌のない一重瞼であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣にした。津田は我知らずこの小ちいさい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 なるほど確かに一重瞼で眼が細いことがディスられている。清子の瞼は二重とも一重とも書かれていない。しかし、

「ああこの眼だっけ」
 二人の間に何度も繰り返された過去の光景シーンが、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
 二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」
 津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退き方かたを見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女はどこまでも逼らなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。

(夏目漱石『明暗』)

 この「それはあなたの美くしいところです」は津田の心の声だ。津田は清子の眼が好きなのだ。それは美しい眼なのだ。残念な一重瞼の細い眼ではない。

 こればっかりは人の好き好きとはいえ、お延は容貌の劣者だったのだ。だから叔父は美男子の津田がお延を嫁に貰うのが気に入らなかったのだ。津田が厳格だからお延と合わないのではなく、お延が容貌の劣者だから津田とは合わないと見ていたのだ。

 それにまあ、津田も其処には不満があるのだろう。美人は三日で飽きる、ぶすは三日で慣れるとは言われるものの、飽くまでそれは慣れであり、やはりよくよく考えると津田がお延に惚れていないことは確かなのだ。

 そうか、容貌の劣者か。ここはお延が継子に対して容貌の劣者だと示しながら清子と比較させたいわけだ。これは漱石が悪い。今なら大炎上だ。

 容貌の劣者なんて、これは絶対、当人には言えない。

 しかしまあ楓のところの細工が見事だったので今回だけは大目に見てあげよう。

[余談]

知らんかつた。

 何かが確定している。

 お腹が弱い芥川にミルミルは解るが……。


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