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川上未映子の『あこがれ』をどう読むか② 苺ジャムから苺を引けば?

 デイヴィッド・ロッヂは『小説の技巧』で、こう述べている。

モダニズムの巨匠たちは象徴的、あるいは隠喩的な題名を用いる傾向にあったが——『闇の奥』、『ユリシーズ』、『虹』——最近の小説家は、『ライ麦畑でつかまえて』、『101/2章で書かれた世界の歴史』、『虹がちゃんと見えない時に自殺を考える黒人の少女たちのために』など、謎めいた、奇妙きてれつな題名がお好みのようである。

(デイヴィッド・ロッヂ『小説の技巧』柴田元幸訳 白水社1997年)

 ジュリアン・バーンズの『101/2章で書かれた世界の歴史』が1989年、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は1951年の作品だ。しかしデイヴィッド・ロッヂの感覚が古すぎると言いたいわけではない。むしろ尾崎翠という作家がいたことを世界が知った時、それは本当に混乱のような驚きをもたらすのではないかと、そんなことを思うのだ。

 1929年(昭和四年)の尾崎翠の作品に『アップルパイの午後』という題名が選ばれたことを知って驚かない者があろうか。この題名は1905年(明治三十八年)の『吾輩は猫である』に次ぐ傑作であり、四十年は先進的なものではなかろうか。

 当然ながら「謎めいた、奇妙きてれつな題名」には確かにきりがないけれどもそろそろ読者も慣れてきた。あるいは随分見馴れてきた。ここでは分析はやらないが、いくつかのパターンのようなものもできてきて、たまに無理をし過ぎているものも見つかる。

 川上未映子の『あこがれ』も「ぼく」の「ミス・アイスサンドイッチ」に対する憧れが描かれていると見做せば作品の主題を象徴する素直な題名だと見做すことが出来るし、「ミス・アイスサンドイッチ」は主人公の名前ではないにせよ、主人公の関心の対象を名指しした古典的な命名法だと見做すことができる。

 その一方で、前回述べたように「ミス・アイスサンドイッチ」という命名そのものはヘガティーと比較すれば理由を欠いていて、たまたまそう名付けられたのだとしてもやはり「アイス」の意味が宙ぶらりんに感じてしまう。

 それとは全く別な意味で「苺ジャムから苺を引けば」という第二章のタイトルは素朴な意味を持ち過ぎている。

 そもそも苺ジャムから苺は引けない。

 元々は苺と砂糖だった。しかしぐつぐつと煮込まれるうちに苺に含まれるペクチンに酸と糖とが作用してもう苺という存在はなくなる。だから苺ジャムから苺を引くことはできないし、その答えは砂糖ではない。一度起こってしまったことはとりかえしがつかないのだ。

 かりに第一章の「ミス・アイスサンドイッチ」が小学四年生の「ぼく」の「ミス・アイスサンドイッチ」に対する淡い「あこがれ」を描いた作品だったとしたら、第二章の「苺ジャムから苺を引けば」はヘガティーの腹違いの姉に対する「あこがれ」とも何とも言えない思いが打ち砕かれ、父親との関係が修復される物語として読むことはできる。ミス・アイスサンドイッチはどこかへ行ってしまったが、父親はまだ消えない。

 腹違いの妹。

 立場が変われば、それはたまらなくいとおしいものなのだろう。

 しかしヘガティーの腹違いの姉「青」は「関係ない」と割り切る。そもそもその連携キーである父親はヘガティーの側にあり、自分の記憶にはない。ならば、ヘガティーと自分とのつながりもない。

 正論である。

 ヘガティーにしてみればいささか突き放したような正論ではあるかもしれないが。

 突き放したのは新田青ではなく、ヘガティーの父親と新田咲子なのだが。

 大人の合理的な選択はしかたがないものではあるかもしれないが、それを子供が受け入れる仕方は様々であろうし、受け入れられないかもしれない。それは読者も同じだ。

 そしてサンドイッチと苺ジャムなので、改めて川上未映子はパンが好きなのではないかと疑うことができる。いや実際には麦くんも特にパンが好きというわけではなくむしろご飯の方が好きなのであって、ヘガテイーにしてもジャムのためにパンを食べているのであって、必ずしもこれはパンの話ではないのだ。

「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い易やすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られれば好いと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から制肘される以上は、その労力は堕落の労力だ」

(夏目漱石『それから』)

 人はパンのためだけに生きているのではない。

 うちの朝ご飯はかならずパンで、そこに苺ジャムをたっぷりのせて食べるのがきまりになっている。その苺ジャムはスーパーで買ってくるものではなくて、お父さんが作っている。

(川上未映子『あこがれ』新潮社 2015年)

 お父さんはジャムも作り、子どもも作る。ジャムも子供もなかったことにはできない。それは受け入れるしかないことなのだ。

 つまり第一章がたこ焼き屋の娘に憧れる話であれば、「ミス・ネギマヨネーズ」であり、ヘガティーの家の朝ご飯がお好み焼きならば、「お好み焼きからお好みを引けば」というタイトルになっていたわけである。

 そしてここであることに気がつく。ヘガティーの朝ご飯が苺ジャムをのせたパンならば、飲み物はオレンジジュースや珈琲ではなくて、きっと紅茶だろうと。なるほど、だからヘガティーなのではないかと。

 そして麦茶の好きな麦彦、つまり麦くんもパンに繋がることが解る。これが蕎麦彦だとガレットになってしまって、夏目夏子のお気には召さない。いや、小麦粉ならパンにもうどんにもお好み焼きにもたこ焼きにもなる。麦彦、随分可能性のある名前だ。



[余談]


 そういえば、アンリのショートケーキも苺。

 つまり新田咲子はヘガテイーに「一期一会」、会うのはこれっきりよ、と言いたかったのだろう。

 違うか。

 ヘガティーの本名なんやねん?

 

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