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江藤淳の漱石論について⑥ 「明治の一知識人」

 明治の知識人とは必ずしも夏目漱石一人を差すものではない。知識人は多い。例えば田中正造や内村鑑三なども明治の知識人として論われる。しかし江藤淳の漱石論において夏目漱石は「明治の一知識人」というキャッチフレーズにはめ込まれて論じられる。このカテゴリーには他に森鴎外が入れられるが、島崎藤村や幸田露伴は入れられない。しかし私はこの「明治の一知識人としての夏目漱石」という捉え方そのものに、微かな違和感がある。それは何も森鴎外や夏目漱石が知識人ではないという意味ではけしてない。彼らが膨大な知識の持ち主であることは否めない。ただ取り立てて島崎藤村や幸田露伴を「明治の一知識人」と呼ばないぼんやりとした理由があるのだとしたら、そんなようなものが夏目漱石にもあるからだ。

 夏目漱石の同時代人であり、少なからぬ因縁があった有名人に西田幾多郎と南方熊楠がいる。この二人も乱暴に括れば「明治の一知識人」となるのだろうが、どうも「明治の一知識人」というカテゴリーに収まり切れないものがある。それは二人を哲学者、博物学者と呼んでみたときに明らかに足りないものがあるという感覚と同じである。西田幾多郎は最終的に絶対矛盾的自己同一論において論理式からはみ出し、反哲学学者となる。

 わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。(ウイキペディア「南方熊楠」「南方マンダラ」より)

 このようなことを考える人を「明治の一知識人」と呼んでしまうことに私は大いにためらう。そういう意味では物我一体の真実からか物事を考える夏目漱石も真面ではないのだ。

 しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰である。三世に亘る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
 限りなき星霜を経て固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹して瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、爛たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。さらに想像を逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ焔々たる一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴たる今日から溯って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張れば、一糸も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭によって生息する吾ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪るに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。(夏目漱石『思い出すことなど』)

 この『思い出すことなど』は「朝日新聞」に1910(明治43)年10月~1911(明治44)年4月の間連載された「エッセイ」として扱われている作品で、江藤淳の漱石論に関わらず、私が漱石の作家としての人生の中間地点と見做す、『門』の後に書かれ、前期三部作と後期三部作の間に位置する。「吾らごときものの一喜一憂は無意味」「吾ら人間の運命ははかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない」というありふれた結論を得るために持ち出された「無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史」をはったりだと言うのでなければ、漱石に「自己抹殺の願望」があったとか、『こころ』の先生の死には、作品の主題とは無関係に漱石自身の自死に対する願望が滲み出ているというような解釈はいかにも筋違いであろう。

 無論、この「無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史」が絶対に文学的装飾でないと言い張るつもりはない。寒月の壮大な話のソースは寺田寅彦ばかりにあるのではなく、「真性変物で、常に宇宙がどうの、人生がどうのと、大きなことばかり言って居る」(『処女作追懐談』)高等学校の同級生の米山保三郎などにも由来するものではなかろうか。彼らの「脅かしっこ」が姿を変えて『思い出すことなど』にも表れたと考えることはさして不自然なことではない。米山保三郎の癖が感染したとして、これを書いている漱石はやはり単なる一知識人ではなく、真性変物である。

 そのことを確認するためには漱石全集で断片、ノート、メモ眺めれば良いだろう。漱石の関心がいかに抽象的かつ形而上学的なところにあったか、という気配は明確に伺うことはできる。無論断片やメモから漱石の考えていたことそのものに迫ることは私にはできない。ただ漱石が日本語と英語のちゃんぽんで何やら深遠なものに迫ろうとしていること、そのあまりの真剣さ、真面目さに驚くばかりだ。ここにはさすがにはったりはなかろう。おそらく漱石は最も困難な哲学的問いである時空の問題、そして「自己」と人類、道徳と美の問題を本気で考えていたのだ。今、そんな問題を考えているのは「中二病」と呼ばれる人たちと本当の哲学者だけであろうが、どうも漱石は本当に考えていたようだ。

 今の世は個人が一般のcommunityにdependして生きる程度の多き時代なり昔はcommunityが個人にdependして生存する時代なり(夏目漱石「明治四十三年 断片52」)

  漱石は『文学論』序において、

 余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文学にあらず。余はこの点についてその範囲及び細目を知るの必要ありしを以て時の専門学務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質ただしたり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。ここにおいて命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途に上のぼり、十一月目的地に着せり。(夏目漱石「『文学論』序)

 と述べる。して、

 余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あつて、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。
 余は余の提起せる問題が頗る大にしてかつ新しきが故に、何人も一、二年の間に解釈し得べき性質のものにあらざるを信じたるを以て、余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力つとめ、余が消費し得る凡ての費用を割さいて参考書を購へり。この一念を起してより六、七カ月の間は余が生涯のうちにおいて尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。しかも報告書の不充分なるため文部省より譴責を受けたるの時期なり。
 余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふごとにノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしもののうちに何となくある正体のあるやうに感ぜられるほどになりたるは五、六カ月の後なり。余は固より大学の教授にあらず、従つてこれを講義の材料に用ゐるの必要を認めず。また急にこれを書物に纏むるの要なき身なり。当時余の予算にては帰朝後十年を期して、充分なる研鑽の結果を大成し、しかる後世に問ふ心得なりし。(夏目漱石「『文学論』序)

 とまで語る。いったいどのくらい努力すれば、「充分なる研鑽の結果を大成し」とまで語り得るのだろうか。一日二十四時間本を読み続ければ片付く問題ではなかろう。南方熊楠の博覧強記は、澁澤龍彦や種村季弘の比ではない。これもまた比較すべきことではないが、漱石もまたその世界の人ではなかったかと、柄谷行人の『夏目漱石論集成』の余りの幼稚さにあきれながら思う。間違いを集めても何にもならない。それをなったと思い込むことほどみじめなことはないだろう。

 江藤淳は夏目漱石の聖化に抗するためにあえて「明治の一知識人」というカテゴリーに夏目漱石を押し込めようとしたのかもしれないが、その論は夏目漱石を一旦「明治の一知識人」という無機質な記号に変換することによってのみ成立するものであったのではなかろうか。江藤淳は漱石をナショナリストに仕立て上げたい。しかしすでに書いているように夏目漱石・森鴎外の乃木大将夫妻の殉死に対する態度は、これまで俗に言われてきたことの真逆であり、懐疑であり、反論なのだ。多くの明治の知識人たちが、幸徳秋水の二の舞になることを恐れて口を噤んだのに対して、夏目漱石・森鴎外(そして芥川龍之介)は堂々と異議申し立てをしたのだ。

 夏目漱石の聖化に我慢がならなかった江藤淳がものした『夏目漱石』も、和辻哲郎ら漱石信者らが「私だけの漱石先生」として思い描く漱石像と理屈の上では何ら変わらないもの、自分に都合が良いだけの漱石像ではなかっただろうか。江藤淳は「則天去私」についても漱石が幼少のころから求め続けてきた隠れ家的なものであり、現実逃避であるとしている。

 しかしこのことも『明暗』が極めて哲学的で実験的な小説であり、『文芸の哲学的基礎』で語られた主観的実在論を超越したものであることが理解できていないことの証明となろう。

 サリンジャーの小説の登場人物は失神(フェイント)を恐れる。筒井康隆の『虚人たち』では主人公が気絶している間はページが真っ白となった。ローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディ氏の生涯と意見』では黒塗りとなる。『明暗』ではお延が代わりを務める。確かに私を去っている。そして現実をしっかり進行させている。失神していて片付くものなど何もないのだ。









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