芥川龍之介の『魚河岸』をどう読むか③ 海魚が変じて黄雀になる
それにしても『魚河岸』は短い話なのだ。趣向の河岸を変えてみただけなのだと割り切ることが出来なくもない。
しかし何かが引っかかる。
たとえば
俳人の露柴(ろさい)、洋画家の風中(ふうちゅう)、蒔画師の如丹(じょたん)といった雅号である。私はこれらを風流な雅号と書いてみた。しかし露柴(ろさい)、風中(ふうちゅう)、如丹(じょたん)の一体どこが風流なのか説明せいと言われるとはたと手が止まる。
露に濡れた粗朶は風流と言えば風流であろうが、そもそも元ネタの知れない根無し草である。露芝(つゆしば)なら分かる。風中は藤原三成に、「法堂寂寞凡幾辰雲樹朧欲暮春遥風中誦経処定知時有安禅人」という漢詩が見つかるのみ。ただ漢詩と云ってもこれは……かなり日常表現に近い。
如丹(じょたん)は訓ずれば、丹の如しで「赤いようだ」という程度の意味になり、これも風雅というよりは日常表現である。
何の捻りもなく、私はこの雅号は露、中、丹、つまり露西亜、中国、契丹の事かと考えてみた。しかし余った如柴風にこれまた意味が見いだせない上、契丹は既に亡びている。これを満州国の言い換えと見做すのはやり過ぎであろう。
いや「幸さん」の「幸」を足して、ロシュフウコオが露柴風幸……はまらない。「中」と「如丹」が余る。
つまり彼らの雅号は月並みではない代わりに典拠の解らない「なんだかわからないもの」なのだ。恐らく博学な芥川は何らかの意図でこの雅号を選んだ筈なのだが、
弁護士・藤井
銀行の支店長・飯沼
大学教授・野口
電気会社の技術長・木村
ドクタア和田長平
……といった分かりやすい「意味の無さ」がない。意味ありげで意味が見当たらないのだ。まさに「知的なひねりが目立たない」のだ。いや、知的なひねりは本当にないのかもしれない。なら何故意味ありげに俳人の露柴(ろさい)、洋画家の風中(ふうちゅう)、蒔画師の如丹(じょたん)などとしたのか。俳句と蒔絵は日本独自の文化、陽画は西洋のもの、如丹を書家とすれば和洋中となったところを、わさせわざ和洋和にしてしまっている。
この『魚河岸』は『あばばばば』と『或戀愛小説』にはさまれ『黄雀風』という作品集に収められ、大正十二年に出版されている。
この「黄雀風」という言葉にも意味がある。
ならば魚河岸で雀の焼き鳥でも食べれば帳尻が合うものを、芥川はわざと
……とやってしまう。
どんなものにも名前があり、どんな名前にも意味がある。しかし「風中」には風の中という程度の意味しかなかろう。何故その名を選んだ?
このパズルは解けない。
誰か解いてくれないか?
そもそも下戸が何故梯子をしているのか?
洋画家で飯が食えるのか?
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