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かっこつけても仕方ないんだよ 本当の文学の話をしようじゃないか⑰


 芥川龍之介が志賀直哉的なものを書きたいと願いつつ、書けず、案外菊池寛的なものが残っていくのではないかと考えていたことは広く知られていよう。勿論それ以外にも色んな作家に関するさまざまな意見があるけれど、菊池寛を認めていた、というのは一つの事実である。

 庄司薫の薫君シリーズでは、主人公の浪人生がゲーテとシェイクスピアが好き、という設定にされていて、最近ではカフカとドストエフスキーに夢中という典型的な、オーソドックスな、文学青年に仕立て上げられていた。勿論作品の中ではトルーマン・ガルシア・カポーティやローベルト・ムージル、ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルなどもう少し尖った名前も挙げられてはいるのだが、例えば菊池寛の『恩讐の彼方に』を読んで大感動して、後で菊池寛の『恩讐の彼方に』は最も通俗的な成功を収めた作品であると聞かされて、自分が通俗的だと言われたみたいで恥ずかしくなる、といったエピソードが出てくる。

 この感動したけど恥ずかしくなる、というあたりのニュアンスは人畜無害な凡庸さを装う薫くんの設定そのものにかかわる問題である。

 そもそも庄司薫は庄司薫として再デビューする十年前、若き天才作家福田章二として本名で中央公論新人賞を受賞していた。その作品集『喪失』に収められた作品群は実に驚くべきもので才気煥発、しかしぎらぎらとして、ある意味いやったらしい、大江健三郎や平野啓一郎顔負けの尖りようだった。おそらくその当時の福田章二に「どんな作家の本を読んでいるのか?」と質問していたら、聞いたこともないような名前がずらずらと挙げられたことだろう。

 その福田章二が十年後『赤ずきんちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞し、後藤明生は落選した。この時「審査員に老眼鏡を贈ろうかと思った」と後藤は書いていて、その相手は一番若かった三島由紀夫ではないかと私は勝手に解釈している。

 実は十年前に福田章二を中央公論新人賞に選んだのも三島由紀夫である。三島は『赤頭巾ちゃん気をつけて』の饒舌体も『喪失』のわかくぎらぎらした衒いも受け止めた。三島由紀夫は深沢七郎や沼正三といった特殊な才能を見極める度量を確かに持っており、稲垣足穂の再評価にも寄与した。またなんやかんやと言いながら太宰治も大江健三郎も読んでおり、野坂昭如や開高健などこれまた異質なものを広く受け入れた。三島由紀夫はあらゆる見せかけを取り除いて本質を見極める度量を持っていた。

 しかしそもそも『赤頭巾ちゃん気をつけて』というタイトルには皆度肝を抜かれたはずである。たとえそれが左翼活動に対するささやかなシンパシーが込められたものであると言われても、「それにしてもこんな題にするかね?」と引っかかるはずである。庄司薫は思いっきり賺していた『蝶をちぎった男の話』から一転して、べたべたの「ベタ」で行くことに決めたのだ。だからこその『赤頭巾ちゃん気をつけて』なのだ。

 要するにあらゆる文学的気どりを排してみれば、菊池寛の『恩讐の彼方に』に感動して構わないわけである。『楢山節考』にこの世に頼るも物が何もないような恐ろしさを感じることと同じで何も恥ずかしいことではない。『家畜人ヤプー』に圧倒的な言葉の力で支配されていく不快さを感じることと同じなのだ。なんなら『赤頭巾ちゃん気をつけて』に関して、「小さな女の子には優しくしよう」「ぼくは海のような大きな男になろう」と言って見せる薫青年を大いに肯定できるような、そういう易しい気持ちになることは文学的に間違いでも何もない。

 山本周五郎の『さぶ』もガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も一つの書家に並んでいて全く何の問題もない。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』と尾崎翠の『アップルパイの午後』が並んでいてもいいのだ。

 私は庄司薫が到達したところの本当の文学は「むしろあらゆる文学的気どりを排してみれば」という地点であり、ジョイス、プルート以降に書くという意識こそあれ、ちょっと相当にそんな感じがするものなんだという肩の力を抜いた語りだったんだろうなと見ている。

 あらゆる文学的気どりを排したら、何がどうなって本当の文学なのかという説明は少し難しい。間違いなく気どりも文学の一つの要素ではあるからだ。

 しかしおそらく本当にそうは思ってもいないのに「私は宇宙だ」と書いた詩人は駄目だと思う。それは本物の文学ではない。かっこつけって中身がなくて弱い証拠なんだと思う。それで鎧のように気取りで体を隠して、傍から見るとなんだかみっともないことになっているのが偽物なんだと思う。

 さてここから解りにくい話をするよ。

 少し覚悟してほしい。

 一例をあげると偽物というのは「解りやすい説明」だね。「よくできた話」「すっきりとした説明」そういうものはたいてい嘘だ。この世の中にそんなにわかりやすい話はない。あるわけがない。何故ならこの宇宙、現にあるこの宇宙の仕組みそのものが、混沌としたものだからだ。

 解りやすい話というのは矛盾しそうな要素を排除して無理やり仕立てられているものだ。

 誰のとは言わないが「三島由紀夫の天皇論」というものがあったとする。ここに「僕の忠義は幻の南朝に捧げられたものだ」という三島由紀夫の言葉を挿入すると、ほとんどの場合見事に理屈が破綻する。何故ならこの南北朝問題というのは一個のまとまりとして整理したい天皇という意味を複雑に解体してしまうから。北朝の天皇はある意味では反天皇にもなってしまう。これはややこしい。だから「僕の忠義は幻の南朝に捧げられたものだ」という三島由紀夫の言葉はあえて含めないで整理してしまう。これがかっこつけ。インチキの正体だ。

 いってみれば「早まったかっこつけ」。つまり背伸びという嘘だね。

 本人は上手くまとめて格好いいと思っているかもしれないけれど、そうした解りやすい説明というものはやはりみっともない。解らないと言っている方がみっともないように見えるかもしれないが、知ったかぶりよりはましだろう。

 本人は悪気はないつもりかもしれない。しかし自分を胡麻化していることに気が付かないふりをしているだけじゃないかな。菊池寛の『恩讐の彼方に』は最も通俗的な成功を収めた作品であると聞かされて、自分が通俗的だと言われたみたいで恥ずかしくなるという感覚は、気どりだね。ごまかしだ。

 自分というものはしばしば自分を胡麻化そうとするものだ。三島ファンの太宰嫌い、太宰ファンの三島嫌いなんて本当に馬鹿なんじゃないかと思う。そういうのが一番駄目なんだよ。そんなことだから「三島由紀夫の天皇論」が書けてしまうんだよ。

 だからまあ、菊池寛で感動してもいいじゃない。


これね、

 こうなんよ。


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