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芥川龍之介の『神々の微笑』が解らない③ いくら何でも古すぎる


日本は特別な国?


 芥川本人の記憶によれば、『神々の微笑』が書かれた大正十年十二月は、最もひどい神経症に悩まされていた時期であったはずだ。大正六年に書いている通り、(漱石の命日が十二月九日であるにもかかわらず)もともとこの寒い十二月そのものはもっとも気乗りのする季節ではあった筈だが、そんな好みも次第に変化していったのかもしれない。

 その精神状態は格別作品に影響を与えてはいないように思われる。いつも通りのしまりのある文章。隙のない言葉選び。ただ、どうも日本は特別な国だという素朴過ぎる主張が気にならないでもない。

「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」

(芥川龍之介『神々の微笑』)

 実際日本は現時点においても余り基督教が広まらない国だった。当時の芥川がキリスト教信者の割合の国際比較についてどのように認識していたのかは定かではないが、「広まらない」という確信はあったようだ。

 その理由に関しては、

「今日などは侍が二三人、一度に御教えに帰依しましたよ。」
「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

(芥川龍之介『神々の微笑』)

 このように端的に述べられてはいるものの、いつになくロジックが弱い。宗教のローカル化の実例としてはネパール発祥の原始仏教に対する中国での造り変えが最も見事なものなのではかろうか。百済経由の日本の仏教はその受け売りで、確かに宗派により創意工夫は見られるものの、多くは中国仏教の解釈である。

 例外は麻原正晃のオウム真理教のような形で現れはするものの、仏教本来の反社会性を発揮してしまう。

 太平天国の乱なども創意工夫の成果だ。日本だけが造り変える力を持っている訳ではない。

 そして現在では無信仰者の割合は日本より中国の方が多い。何でも「日本凄い」のタイプではない芥川がどうして? と疑問である。


三世紀以前の古屏風?


 最後まで読むとこの『神々の微笑』は過去のある時代のリアルな話としては書かれておらず、いわゆる「お伽噺」のようなものとして閉じていることが解る。

 解るが、どうもそこが解らない。

 南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船入津の図を描かいた、三世紀以前の古屏風へ。
 さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須デウスが勝つか、大日孁貴が勝つか――それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連!

(芥川龍之介『神々の微笑』)

 まず屏風は三世紀に存在したか。

 いくら古いものでも七世紀、新羅からの献上品とのことである。三世紀と言えば卑弥呼の時代。日本国内ではほぼ正式な記録の無い時代と考えてよいだろう。

 そしてキリスト教の伝来は1549年、十六世紀のことである。

 いくら何でも三世紀の屏風では古すぎる。それはあり得ない屏風なのだ。そしてそこを芥川が単に間違うはずがない。

 何故こんな古い時代に設定したのかさっぱり分からない。

 ただ古いのではなく古すぎる理由が解らない。


我々の事業?

 
 そして「やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である」という時の「我々」と「事業」が解らない。これが著述業以外であるとは考えづらいのだが、著述業は普通「事業」とは呼ばない。

 つまりこの話者の立ち位置が解らない。

 解る人いる?




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