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芥川龍之介の『南京の基督』をどう読むか②  そういう意味だったのね

 芥川龍之介の切支丹ものと呼ばれている作品を立て続けに読んできて、そろそろ核心的な事を書いておかないと、最後に引っくり返す落ちが付かないので、特に『南京の基督』に関して明確に言えるところを書いておこう。

 これまで芥川がまるで阿呆にものを教えるように書いてきたところをなぞれば、日本へのキリスト教の伝搬は1549年カトリック教イエスズ会の宣教師フランシスコ・ザビエルに始まる。芥川はそのキリスト教が様々な時代において、ローカル化され時には仏教に翻訳されながら、かなり誤った形で信仰されてきたことを繰り返し書いてきた。中でも『じゅりあの・吉助』においては最早信仰がキリスト教なのか何なのか解らないものに変容されている。

 そのローカル化、仏教に翻訳という受容のされ方が『きりしとほろ上人伝』において「しりあ」「えじつと」の地における伝説に及んだ時、まだ私はそれがキリストの故郷に近い場所でのことであることにさして深い意味を見出せずにいた。しかしこの文字を見て、ああ、そう言うことかと気がついた。

 かう云ふ金花の行状は、勿論彼女が生れつきにも、拠つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、歿くなつた母親に教へられた、羅馬加特力教の信仰をずつと持ち続けてゐるからであつた。

(芥川龍之介『南京の基督』)

 勘定したことは無いけれどおそらくキリスト教のうち羅馬加特力教はローカル化されたキリスト教の最大の勢力であろう。キリスト教はそもそも羅馬加特力教というローカル化により今のように広まったのだ。日本の切支丹が信仰した天主教はローカル化された羅馬加特力教をさらにローカル化したものだ。しかし中国の場合、少し事情が異なる。

洪秀全は病が癒えてから広州に受験で訪れた際、そこでプロテスタントの勧誘パンフレット『勧世良言』を入手し、以前に見た不思議な夢の意味を「理解」し、キリスト教に目覚めることになる。この不思議な夢とキリスト教の接合は、ロバート・モリソンが聖書を翻訳する際にゴッド(God)を音で表記せず、「上帝」という訳語を与えた為起こったと思われる。

ウイキペディア「太平天国の乱」

 中国地域へのキリスト教の伝搬には長い歴史がある。それをここでおさらいするのはなかなか面倒なので、

・唐代に景教と呼ばれる古代キリスト教、東方教会の一派が伝搬
・十三世紀、フランシスコ会(カソリック)が布教
・十六世紀、イエスズ会のマテオ・リッチが布教
・十七世紀、露西亜から正教が伝わる
・十九世紀、プロテスタントが布教

 そして「太平天国の乱」というくらいの前提でどうだろうか。とにかく「母親に教へられた、羅馬加特力教の信仰をずつと持ち続けてゐる」という宋金花が耶蘇教徒であることは決して当たり前のことではないのだ。

 今「イエス・キリスト」と画像検索をしてみれば、白人の長髪鬚面の男性がずらりと上がってくる。しかしそのイメージはおそらくローマ化されたものであろう。「イコン」で検索するとやや東方化する。

 検索してみて。

 ね。

 おそらく芥川の書きたかったのはそのことなのだろう。

 その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――
「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の私窩子を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼な混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙を啓いてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」

(芥川龍之介『南京の基督』)

 ここで言われている亜米利加人とは時代からして白皙人であろう。その電報局の通信員の顔はうまい具合にローマ化されたイエス・キリストのイメージに仕上がっていたのだろう。
 

 それから二人は長い間、手真似と身ぶりとの入り交つた押し問答を続けてゐた。その間に客は根気よく、一本づつ指の数を増した揚句、しまひには十弗の金を出しても、惜しくないと云ふ意気ごみを示すやうになつた。が、私窩子には大金の十弗も、金花の決心は動かせなかつた。彼女はさつきから椅子を離れて、斜に卓の前へ佇んでゐたが、相手が両手の指を見せると、苛立いらだたしさうに足踏みして、何度も続けさまに頭を振つた。その途端にどう云ふ拍子か、釘に懸つてゐた十字架がはづれて、かすかな金属の音を立てながら、足もとの敷石の上に落ちた。
 彼女は慌しい手を延べて、大切な十字架を拾ひ上げた。その時何気なく十字架に彫られた、受難の基督の顔を見ると、不思議にもそれが卓の向うの、外国人の顔と生き写しであつた
「何でも何処かで見たやうだと思つたのは、この基督様の御顔だつたのだ。」

(芥川龍之介『南京の基督』)

 もしも宋金花に教えられたのがロシア正教ならば、この George Murryは梅毒で発狂するという受難を与えられずに済んだ筈なのだ。翻訳が悪いのだ。翻訳のせいで勘違いが生まれ、あれとこれがややこしいことになる。

 それにしても芥川は悪い。こうしてニセのキリストを幻出させておいて、まるで村上春樹のようなことを言い出す始末だ。

「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」
 円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
「ではあなたは召上らないのでございますか。」
「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶蘇基督はまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。
 南京の基督はかう云つたと思ふと、徐ろに紫檀の椅子を離れて、呆気にとられた金花の頬へ、後から優しい接吻を与へた。

(芥川龍之介『南京の基督』)

 そりゃそうだろうけども。

 芥川が揶揄うのは村上春樹に留まらない。ローマ化されたキリストは最後に「中東の人」ではなく「西方の人」と呼ばれてしまうのだから。「西方の人」とはローマ化されたキリストという意味だったのだ。

 その呼び方の意味が『南京の基督』でようやく解った。

 

[余談]

 それにしてもパスタだって中国起源なんだから、「中華料理が食べられない」というのはどうなんだろう? 支那料理というべきじゃないか。nouvelle cuisine chinoise だって chinoって言ってるじゃない。

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