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おかしいのはどちらだ 牧野信一の『爪』をどう読むか④
「さう……?」道子の心は明かに欺かれて来た。彼女は不安気に眼をしばたゝきながら彼の言葉で思ひ当る事を探してゐるやうだつた。彼は内々会心の微笑を禁じ得なかつた。頭は益々明瞭になり平時に復してゐた。
「僕は現実を笑つたのではない。僕の怪し気な幻と微笑を交換したのだ。だから道ちやんから見たら充分気味悪くも見へたらうが、僕自身にとつては別に不思議はなかつたのさ、ハヽヽヽヽ。」
「――」道子は彼の顔を穴のあく程凝視して居る。
「ハヽヽヽハヽヽヽ。」
「――――」
道子がだんだん真面目になつて来るのを見ると彼は可笑しくてならなかつた。笑はずには居られなかつたのだ。彼は道子の珍らしくも浮べた不安の色を見ると、どうしても笑はずには居られなかつた。彼は今自分が笑つてゐるのを、道子が案外にも彼の思ふ寸法通りに取つて怖れ始めたかと思へば、嬉しくつて堪らなかつた。
「兄さん!」道子は急に頓狂な声を出して、慌てゝ指先を手布で拭ふた。「全体家には狂ひの血統があるんだつてね。今迄大抵一代に一人は出たつてえ事よ。」
「そんな事は今更云ふ迄もない事だ――」道子が稍々平伏して来たので痛快でならなかつたから、彼は強いて尤もらしく厳然と唸つて見せた。さうして彼は瞑想に耽けるが如き態度で、両方の眼を据えて凝と窓の方を睨むだ。
なかにはたまたまではなく、ものすごく悲痛な理由から私がこんな作品を今更読んでいるのではないかと疑っている人がいるかもしれない。けれども断じてそれはない。
五分ほどで読めるので、まず田山花袋の『少女病』を読んでみてもらいたい。これは実に真面である。少女に夢中になっているうちに電車に轢かれて死んでしまう。
しかしおかしいのはこんなことを私が書いている現実の方ではないか。
この現実は私が創り出したものではない。
大真面目に出鱈目なことがやられている。あるいはみんな徹底して悪ふざけを続けているのだろう。
しかし人にものを教えるような立場の人間が出鱈目を書き散らすことは決して良いことではない筈だ。そこの見境のない人が実に多い。本当にその人たちが無自覚で反省もなければ、やはり少しおかしいと言わざるを得ない。
牧野信一は「彼」をして「頭は益々明瞭になり平時に復してゐた」という状態にありながらあえて狂人のふりをさせるという際どい遊びに興じさせる。妹は「家には狂ひの血統があるんだつてね」とまで言い出すので本気である。
しかしこの場面はまた「妹が少しおかしいことになぜか気が付かない兄」あるいは「引きこもりがちな母の可能性」が描かれているところと考えてみることもできる。それは「風呂上がりに化粧して兄の部屋でシュウクリイムを食べる妹が湯冷めする場面」と言い換えてもいいし、「妹と話している間は煙草を吸わない兄」が捉えられているといってもいい。
妹がおかしいことは、
「兄さん!」道子は急に頓狂な声を出して、慌てゝ指先を手布で拭ふた。
この場面でおわかりでせう。なんで「慌てゝ指先を手布で拭ふた」必要がありますか。牧野自身も「凝と窓の方を睨むだ」と書いているので少しはおかしいことはおかしいが、読者にどちらがよりおかしいのか比較させようとしていることは確かだ。
で、ここまで妹をおかしいと思っていなかったら、おかしいのはあなた自身だ。
牧野は妹が風呂上りにどんな格好なのかも書かない。寝巻にどてらでも羽織っているのか、それで化粧をしていたら本当におかしい。書かないからおかしさが全開ではない。ただ理屈の上で妹はおかしい。
「実はね、兄さん――阿母さんもそれで此間から大変心配して居るのよ。妾は阿母さんの臆病や迷信はてんで相手になんかしやしないけれど、何でも兄さんの着物をそつと易者へ持つて行て見て貰つたんですつてさ――だけど兄さんは本当に今云つたやうな事を信じて居るのですか、えゝ?」
「誰が酔興に……」
この母親は実際おかしい。私はずいぶんと占いの本も読んできたが易者が着物で占うという話は聞いたことがない。それにしてもだ。息子が三日も部屋に引きこもっていたら、まず「おなかが空いていないか」と心配するのが母親というものではなかろうか。それとも書かれていないが「彼」はこの間食事や入浴は普通にしていたのか?
いやいや、ここまでのところを読み直してみたが、そうは読めない。定時に食事に降りてくるなら今更二階でこの話でもない筈だ。
いや、二階とは書かれていないな。ここは三階でもいいし、妹が地下室から階段を上がってきたのなら一階でもいいわけだ。
危ない危ない。勝手に決めつけるところだった。
彼にとつては、こゝの処が仲々の難関だつた。もう一歩道子を信じさせてしまはなければならなかつた。こゝらで一歩違へば立所に道子は剣のやうな冷笑を真向から浴びせることは解つてゐる。さうなつてからいくら騒いだつてもうおつつかない。彼の見せ場はこの辺が最も六ヶ敷いのだつた。
「死ぬ死ぬてえ人に死んだためしはないてえが、何だか兄さんもその部類らしいのね。」彼女の眼は雲間を出た月光のやうに輝かうとした。「あぶないツ。」彼はヒヤリとした。
妹は江戸っ子か。
いや、ここまでのところを読み直してみたが、そうは読めない。妹は東京語の女学生のような言葉を使っていた。それが急に江戸弁になった。やはりここは牧野信一が、道子の狂気性をじわじわと見せつけているところだ。これて「本当におかしいのは道子でした」と落とせば牧野信一の負け、私の勝ちである。しかしこの勝負の行方はまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
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