夏目漱石『野分』のウイキあら捜し
①「3人の作家にまつわる物語」
何か文章を書くことで生活している人を云うには作家でいいのだろうか。冒頭「白井道也は文学者である」とあるので、まず「白井道也は文学者」でいいのではなかろうか。しかし作家とは言えない。書いているものが「人格論」なら哲学者か批評家だ。
高柳君の紛失した原稿は「地理教授法の訳」である。これを業とすれば翻訳家である。しかし「たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体を切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。」とワナビーである。
中野君は「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園はなぞののなかに立って、小さな赤い花を余念なく見詰めていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね」とワナビーである。
②「大学院生」
高柳と中野は卒業して文学士となっているので、大学院生ではなく、いわば就職浪人だろう。
③「故郷で教職に就いていた」
白井道也は「八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た」とあるのを「田舎」≒「故郷」と読んだのだろうか。「始めて赴任したのは越後のどこか」とあるので越後は故郷ではなかろう。
④「村人と生徒によってその職を追われることになった」
作中「村人」の文字は現れない。役員、新聞、同僚、父兄、生徒に嫌われ、越後を去る。九州では実業家に睨まれて去る。中国辺の田舎では、旧藩士に挨拶をしなかったことが原因で去る。
大きく来れば、住民との対立が原因で、と云っても良いが「同僚の教師によって煽動された生徒たちの悪ふざけなど」と加えた方が良いかもしれない。
⑤「「人格論」という真剣な作品」
これが難しいところだ。
講演の内容がそのまま「人格論」ではないとしても、多少の反映はあろう。漱石の公演を文字で読むと、大上段から振りかぶり、大真面目に大きな問題を論じるのに、適度な例話はあれども『吾輩は猫である』式の逸脱はない。『野分』おける白井道也の演説は逸脱や賺しといった笑いの要素を明らかに含んでいる。「「人格論」という真剣な作品」にもどこか滑稽が含まれていたのではないかとこの演説は思わせる。また「これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである」はずっこけ落ちになっている。高柳君にとって「人格論」は価値があろうが、中野君にとっては百円の価値はなかろう。
この『野分』そのものが大真面目かつユーモラスな作品であることは言うまでもない。最近、というか少し前、村上春樹さんが『職業としての小説家』のなかで「エンターテインメントとエスタブリッシュメントの融合」のようなことを書いていたけれど、戦略としてそれを体現した先駆者に確かに夏目漱石はいたと見てよいだろう。これをただ真剣なものにしてしまっては漱石に申訳ない。
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