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芥川龍之介 散文詩 「ミラノの画工」

ミラノの画工

ミラノの画工アントニオは
今日もぼんやり頬杖ついて
夕方の鐘の音をきいてゐる

鐘の音は遠い僧院からも
近くの尼寺からも
雨のやうにふつて来る

するとその鐘の音のやうに
ぼんやりしてゐるアントニオの心に
おちてくるものがある

かなしみかもしれない
よろこびかもしれない
唯アントニオはそれを味はつてゐる

「先生のレオナルドがゐなくなつてから
ミラノの画工はみな迷つてゐる」
かうアントニオは思ふ

「葡萄酒をのむ外に
用のない人間が大ぜいゐる
それが皆画工だと云つてゐる

「レオナルドのまねをして
解剖図のやうな画を
得意になつてかく奴もゐる

「モザイクの壁のやうな
色を行儀よくならべた画を
根気よくかいてゐる奴もゐる

「僧人のやうな生活をして
聖母と基督とを
同じやうにかいてゐる奴もゐる

「けれども皆画工だ
少なくも世間では画工だと云ふ
少なくも自分で画工だと思つてゐる

「自分にはそんな事は出来ない
自分は自分の画と信ずる物を
かくより外の事は何も出来ない

「しかしそれをかく事が中々出来ない
何度も木炭をとつてみる
何度も絵の具をといてみる

「いつも出来上がるのは醜い画にすぎない
けれども画は画だ
いつか美しい画がかける時がくる

「かう思うそばから
何時迄たつてもそんな時は来ないと
誰かが云ふやうな気がする

「更になさけないのは
醜い画が画でない物に
外の人がかくやうな物になつてゐる事だ

「己はもう絵筆をすてようか
どうせ己には何も出来ないのだ
かう思ふよりさびしい事はない

「同じレオナルドの弟子の
サラリノはあの尼寺の壁に
マリアの顔をかいたが

「己はいつ迄も木炭を削つてゐる
いつ迄も絵の具をとかしてゐる
しかし己はあせらない

「己はダビデより マリアより
すぐれた絵をかき得る人間だ
少なくもあんな絵はかけぬ人間だ

「ただ絵の出来ぬうちに
己が死んでしまふかもしれぬ
己の心が凋んでしまふかもしれぬ

「たゞ画をかく
之より外に己のする事はない
之ばかりを己はぢつと見つめてゐる

「この企てが空しければ
己のすべての生活が空しいのだ
己の生きてゐる資格がなくなるのだ」

アントニオはかう思ふ
かう思ふと涙がいつとなく
頬をつたはつて流れてくる

アントニオは今日もぼんやりと
夕月の出た空をながめながら
鐘の音をきいてゐる

[大正三年九月 恒藤恭宛書簡]


※「己」は「おれ」と訓ず。


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