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三島由紀夫の『宴のあと』を読む 「詩」の物語

庭のぐるり

こんな朝の散歩は、かづの安全性の詩だったのである

 三島由紀夫という「詩」が、何もない庭でとじられたことはいささか象徴的ではなかろうか。死の一週間前の最後の対談では、「もう何もない。くたびれちゃった…」と消え入るように言っている。『宴のあと』はそのかなり手前にあるのに、既に偶然にか、「終わり」を描いた作品になってしまっている。また少年詩に始まった三島文学が、政治や選挙や男女のしがらみといった「俗中の俗」(Ⓒ太宰治)の世界を描きながら、なお「詩」という言葉にしがみつこうとすることは注目してよいだろう。『宴のあと』はある意味で、「詩」の物語なのである。このことは十九章の物語の十八章で不意に明らかになる。そしてその額縁は第一章で示されている。こんな朝の散歩は、かづの安全性の詩だったのである、という曖昧な表現の意味はやがて明らかになる。

 福沢かづは人間は暗渠、四辻の甃だという。このごろの若い人のやっていることは衣装が違うだけで中身は全く昔と同じだという。物語は既に終わった者同士が結ばれ、選挙に打って出るという一幕の、つまりさして複雑な構成を持たない劇である。戯曲の達人であった三島は、一つのクライマックスを持った物語としてこの小説を上手にコントロールして書いている。金閣寺を焼くことがクライマックスになる筈の『金閣寺』が複雑な構造を持ち、一幕の劇と見えないことと対を成す。

あまご 「雨子」、「雨魚」、「甘子」、「天魚」、「鯇」 サツキマス

藤鼠

江戸小紋

古代紫地

一本独鈷の帯

そのでん  そのやり方

つまり私の布石がデタラメで、序盤にトンマな石ばかり打つから、みんな気の毒がって気をゆるめる。すると唐突に向う脛を蹴とばす。いつも、たいがいそのデンで、第一局をモノにする。第二局から碁の性格を見破られるから、気の毒がったり気をゆるめてくれなくなり、私は結局、もう一目、よけい置かないと勝負にならない結末となる習いなのである。(坂口安吾『私の碁』)

雞屋 とや 雞の部首は「ふるとり」意味はニワトリ、 鳥屋 塒

諸声 もろごえ

車の往来は織るようだが

見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。(泉鏡花『外科室』)

垂んとす なんなんとす   垂とする 垂はしずる たれる 模範を示す 部首は土  垂死    死にかけていること。今にも死にそうな状態。

敗荷 葉のやぶれたハス。 やれはちす。 「破れ蓮」

亜欧堂田善

軍艦伊勢

吃水線  きっすいせん 船が水上に浮かんでいるときの水面と船体との交線。

蹴出し  女性が腰巻の上に重ねて着るもの

奈良の二月堂の御水取

デンドロビウム

叱言 こごと

香奠 こうでん 奠は、さだめる/そなえる/まつる/神前に物をそなえてまつる

毳立つ けば立った 毳はむくげ にこげ そり

銭苔 ぜにごけ

黄楊 つげ

俗耳 ぞくじ

細流れ ささながれ 小川

蛇籠 竹材や鉄線で編んだ長い籠に砕石を詰め込んだもので、河川の護岸や斜面の補強などに使用されてきた。 石籠

姫小松 小さい松

一越の着物 緯糸に左撚りと右撚りの強撚糸を、交互に用いて織った絹織物のこと

鮮らしい あたらしい

帯の太鼓

鶉縮緬

附下

間道の帯

素鼠

逕庭 けいてい へだたり

昭和十二年六月七日    作中では土曜日とされているが月曜日

竹矢来  竹をあらく組んで作った囲い

両部神道 真言密教と結合して発達した神仏習合の神道説

沈淪 ちんりん おちぶれる

練行  仏道などの修練の苦行を積むこと

松明竹

仕丁 雑役に従事する人夫

小川燻製?

吹木東寺巻 湯葉でふきを巻いたもの

大星 (・・?

浅月

千社唐味噌漬 唐味噌漬ではなくて千社唐、茎レタスの味噌漬け

末黒 野焼きなどのあとに草木が黒く焦げていること

グーテ・アルテ・ツァイト

くさくさした気分

角立て  他にぬきんでていること。他を圧倒していること

電柱に選挙のポスターを貼る

 いやまさに、こんなことが解らなくなるのではなかろうか。と思って調べたら、結構今でもやっている人がいるようだ。

薩摩揚げを売り歩く

 これもいぶりがっこの飛び込み営業とか、年末の塩辛売りのアルバイトみたいなものでまもなくわからなくなるのかな。

つきづきしく  似つかわしい。 ふさわしい。 調和がとれている。

 こんなことばが青空文庫に使用例が見つからない。「徒然草」と「源氏物語」「枕草子」「日本歌謡集成」…

江東地区の孤児院 孤児院とか母子寮とかもわからなくなるんだろうな。

紐帯 ちゅうたい 二つのものを結びつけて、つながりを持たせる、大切なもの。

聚落 しゅうらく

広濶 こうかつ 広闊 ひろびろとひらけているさま。

提灯の一つら  これは解らない。提灯を数えるなら、一張(はり・ちょう)、一帳(ちょう)、一本、一個、一台・一基、一対、一灯・一燈なので、比喩的に面としたのか? ひとつらなりの略か。こっちだな。

佐渡おけさ

こういうことがわからなくなるんだろうな。

一トくさり  一齣  一闋

駘蕩 たいとう のびのびした様子

剣突   けんつく 荒々しくしかりつけること。 語気強く人に当たること。 どなること。

逆さクラゲ  看板に使った温泉マークの♨を、逆さにしたクラゲに見立てて、連れ込み宿のこと。 昭和20年代の流行語。これはもう見ないな。画像検索するとグーグルの無知ぶりが解る。

立林何帛

千三屋  千のうち三つしか本当の事を言わない不動産屋をさす言葉。確かにそういう業界だ。

ジョン・クーパー

 結局『なんクリ』が正しかったということにならないだろうか。『赤頭巾ちゃん気をつけて』には柳屋ポマードがダサくてMG5がナウいみたいな時代背景がある。やはり風俗が色あせるさまはすさまじい。

「生卵をお呑みになりませんか?」
 とうとうかづが言った。
「小学校の運動会じゃないよ」(三島由紀夫『宴のあと』)

 生卵を飲むと言えば映画『ロッキー』のイメージがある人が多いだろうけど、昔生卵は滋養に良い食べ物とされ、オロナミンCのコマーシャルでは生卵割り、ジン割りなどが紹介されていた。


 これが大塚食品でなくて大塚化学の製品というところが何となく時代だな。

乱れ箱  ぬいだ着物などを入れるための箱。みだれかご。

切火  対象にむかって火打石を打って火花を起こすことによって行う清めの儀式。 神仏に対する供物や神具を清めるほかに、花柳界や相撲のような水商売の世界では一種の縁起かつぎとして人に対しても行う。燧石はメルカリで売られている。

西日のきびしい渋谷の駅前広場

オルグ  団体が組織拡大のために、主に労働者・学生に対して、宣伝・勧誘活動で構成員にする行為、又はその勧誘者

淫佚 いんいつ みだらな楽しみにふけり怠けて遊ぶこと

稀硼酸水 きほうさんすい

建水 茶道具の一つで、茶碗を清めたり温めたりしたときに使った湯や水を捨てるために使うもの。「こぼし」とも言う。

瀰漫 びまん  広がりはびこること

海浜着  海水浴や水泳の際に着る男女の衣服の総称

天心

全逓  全逓信労働組合の略称

睡蓮

安達流

病葉 わくらば 病気におかされた葉。また、夏、赤や黄白色に色づいた葉。

秋の日をホロ/\と散る病葉の
  たゞその名のみなつかしきかな

…という宮本百合子の短歌があるが、八月十日の病葉が正しい。

  見てぞのみ咲きては散りぬ賢しらの  
            山に住むてふ宇治の橋姫 
       我が兄子に見せむと散りし病葉(邂逅)に
                   時の間ほども眺めあらなむ

 …という村雨春陽の短歌は

この本に出てくる。

この前に

 神山の岩垣沼に生計(たつき)なす
           紅葉の君の散るを惜しみし

と詠んでいるのでちょと混乱しているのかな。

離(か)れ離(が)れに散りこそしぞろよ
 梧桐(あおぎり)に陰(ひし)けて雨の伝う夜は

も季節が曖昧だな。いや、私事でした。

三本絽

絽つづれの帯

路上の眺めに石ころや馬糞があるのは自然なことである。

 流石にもう馬糞は見ないな。

廬山  江西省北部の名山

歔欷  きょき すすり泣き。むせび泣き

縫取 布地に模様を色糸で縫いつづること。またその模様のこと。

千疋屋  銀座八丁目には既に千疋屋はない。もとは日本橋人形町3丁目にある。いや、ずっと日本橋で、銀座ではないような気がする。ちなみに銀座八丁目はほぼ新橋である。

鮫小紋

平絽 ひらろ

久濶 久闊   長らく音信をしないこと。無沙汰。

扇風

三番抵当

辨駁 べんばく 他人の説を、その誤りをついて言い破ること。 反駁。

稀覯 きこう めったに見られないこと。覯はあう、構成する。

売立て  一定量の品物を一定期間に売ること。

蜩 ひぐらし

合歓木

山巓の安息 さんてんのあんそく 巓はいただき

奉加帳 ほうかちょう 寺社の造営,修理などのために財物を寄進するに際し,寄進する財物の目録や寄進者の住所,氏名を記入する帳面。 寄進帳,勧進帳ともいう。 転じて一般の寄付の場合の帳面をもいう。

腰唐戸  戸の腰部から下を唐戸のようにし、上部をガラス障子にしたもの。

真率 正直で飾りけがないこと。まじめで率直なさま。

夾雑物 あるものの中にまじっている余計なもの。

端坐  姿勢を正してすわること。正座。

蹌踉 そうろう 足もとが定まらず、ふらふらとよろけるさま。

恬淡 てんたん 欲が無く、物事に執着しないこと。

徜徉 しょうよう 気ままに歩き回ること。 逍遥。

フルーツ・ジェロ

 野口は多くの隠遁政治家と同じように、その晩年のために「詩」を保っておきたかったのである。この萎びた保存用食品は、今まで味わう余裕もなく、又旨そうにも思われなかったものだが、これらの人にとっては、詩そのものよりも、詩への安定した渇望に詩がひそみ、詩こそ正に世界のゆるぎのない確定を象徴するものだった。もう二度と世界の変貌する怖れがなく、二度と不安や希望や野心に襲われないことがわかってから、詩は出現する筈だったし、そうあらねばならなかった。
 そのとき終生の道徳的な気づまりや、論理の鎧は融解して、秋空へのぼる一筋の白い煙のような、「詩」になってしまう筈である。ところがこんな安全性の詩についてはかづのほうが先輩であり、その無効もかづのほうがずっとよく知っていた。(三島由紀夫『宴のあと』)

 こんな朝の散歩は、かづの安全性の詩だったのである。と第一章では語られた。ようやくそこに戻ってきたのだ。

小綬雞  こしゅけい コジュケイ 小綬鷄

満天星 どうだん どうだんつつじ

中雀門

なまなかな 生中な そうすることがかえって良い結果とならず、まずいという気持ちを表す。 なまじっか。

 『宴のあと』は珍しく手紙で閉じられる。そこには「裸の人間を見せ合った」「汚濁が人間を洗う」「偽善が人間性を開顕する」「悪徳が無力な信頼を回復する」「すべての鳥は塒に還った」と綴られている。まるで『彼岸過迄』のような解りやすいまとめになっている。

 しかし物語は終わり、詩は死んだことを、誰よりも知っているのはかづ自身である。

 こう書かれたのは第一章である。生まれ変わりもなく円環的にくるりとめぐる物語、その中にさりげなく世界の変貌が予告されていることをどう受け止めればいいものだろうか。溝口の徒爾としての行為によって焼け落ちた金閣はあっさり再生された。小綬雞はチョット コイと鳴くが姿を見せない。この『宴のあと』について主題が解りやすいなどと書いている人がいたとしたらやはり頭がおかしい。

 かつて小さく折り畳まれていた庭は、水中花のようにみるみる拡がって、謎や不可解に充ちた広大な庭になった。(三島由紀夫『宴のあと』)

 最終章にこの記述はある。『宴のあと』の主題は政治などではけしてない。『宴のあと』は「詩」の物語である。選挙の前から「物語は終わり、詩は死んだこと」をかづは知っていた。しかしかづは徒爾としての行為に走る。それが徒爾であり余剰であることを知りながら、詩が死んだ世界で恋と政治に遊んだ。その俗は確かに量的に物語の大部分を占めるとはいえ、いわゆるアポリアでしかない。問われていたのは詩である。

                            了


【余談】電車で本を読んでいて笑われた話ではなくて

 ずっと昔のこと、電車で本を読んでいてカップルに笑われたことがある。読んでいた本はヘミングウェイの『女のいない男たち』、そして古語辞典。『女のいない男たち』は多分、もてない男がもてるマニュアルを読んでいたと勘違いされたのだろう。古語辞典で笑われたのは、たまたま履き古した靴が壊れてつま先がパカパカしていたからだと思う。
 そんな私でも三島由紀夫作品を読むと、近代文学を飛び越えて平安文学とつながる過激さにあきれてしまう。蓮田善明は三島の戦後作品を読み得なかったが、保田與重郎が三島の「古典がしっかり入った」文学をどう捉えていたのか気になるところである。少なくとも私は、三島の語彙を確認しなおして、「おいおい、万葉集かよ」「何活用だよ」「どうしてこの字を使う?」「さりげないけど案外使用例がないぞ」「字義は適切すぎるぞ」と呆れてしまった。近代文学の成果をあざ笑うかのように、三島は古典に遊ぶ。この三島は言ってみれば靴がパカパカしているようなもので、おかしいと云えばおかしい。三島由紀夫は戦後派だから近代文学じゃなくて現代文学でしょ、と勝手に仕分ける事の方がおかしいのだが。

【余談②】コクの謎
 
 例えば人気の居酒屋店にはいわゆる「こくのあるチューハイ」なるものがある。謎のエキスがあり、それがコクを生む。これはキリンの特製サワーのような上品なものではなく、甘みでも酸味でもない「深み」があるチューハイなのだ。しかしこれが簡単に作れることが解った。ドライ系のチューハイにレモン果汁、それにビールをわずかに足すと人気の居酒屋店にある、いわゆる「こくのあるチューハイ」なるものが出来上がるのだ。間違いなく深みが出る。あの味に近づく。

 この程度のことで「深み」は捏造できる。三島の古典は滲み出るものだが逆張りは簡単にコクを生んでしまっている。柏木の哲学を分析している人もいるけど、それってどーなの? 野口の哲学も分析する? 永山元亀の哲学も? 

 哲学って


 そもそも分析できないものじゃないかな。


【余談③】肩の力が抜けてきた?


 しかし初期作品と比べれば後期作品は語彙も観念もかなりどちらも抑制されている。肩の力が抜けてきたのであろう。あの酒鬼薔薇君は漢字検定一級の資格を持ちながら、『絶歌』には難読漢字を一文字しか使用していない。このことはなかなか信じがたいことである。最初から肩の力が抜けているのだ。前半の過剰な比喩が、次第に抑制されていくのも怪しい。

 

【余談⑤】サンダル履きでジョギングするおじさん

 これも段々解らなくなる話なのだけど、昔はランニングとかジョギングなんてものはなかった。走ると野犬に追いかけられた。日本でジョギングがなんとか認知されるのは1970年代後半で、むしろストリーキングの方が先に流行している。
 今日私はサンダル履きでジョギングするおじさんを見たが、昔ならこういう人はたいてい泥棒である。私が見たおじさんが泥棒でないという保証もないけれど。

※本買ってね。まじで。



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