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作家にとって思想とは何か③

 牛肉が安かったので今夜はすき焼きにしようと考えた。長ネギと、切れ目の入った椎茸は既に家にある。しらたきと焼き豆腐を買おうと豆腐専門店に行ったらそもそも焼き豆腐がなかった。コンビニにはない。スーパーにはある。そこでふと考えた。何故焼き豆腐は普通の木綿豆腐の三倍以上の値段で売られているのかと。
 グーグルに質問してみて驚いた。グーグルは音声として「焼き豆腐」を認識しないのだ。当然文字では認識する。つまりこれまでスマホに向かって「焼き豆腐」と呼びかけた人間はきわめて少ないということなのだろう。それはつまり通常すき焼きを作るような家庭では、何故焼き豆腐は普通の木綿豆腐の三倍以上の値段で売られているのだろうと考えることもないのではないか、とまず私は考えていた。その考えが「焼き豆腐」の文字による検索により、一瞬にして覆された。検索結果にはずらずらと、手作りの「焼き豆腐」レシピが並ぶ。

 レシピといってもただフライパンで焼くだけ。つまり豆腐専門店に焼き豆腐がなく、焼き豆腐が普通の木綿豆腐の三倍以上の値段で売られているのは、焼き豆腐というものがすき焼きを食べる過程に於いてさえ高級品であり、そもそも焼き豆腐を買おうなどと云うふるまいは贅沢の極みだったのだ。だから皆スマホに向かって「焼き豆腐売ってる店教えて?」とは言わないのだ。

 しかしこのことは実際に焼き豆腐を買おうと思うまで、私にとってまるで考え付かないことだった。「手作り焼き豆腐」という概念がそもそも私の中にはなかった。矛盾するようだが、その一方で「焼き豆腐なんて木綿豆腐に焼き目を付けただけ(なのに何でこんなに高いんだ)」という疑問は確かにあったのである。ただその疑問が、「手作り焼き豆腐」に行きつくことはなかった。これは何故だろうか?

 改めて「手作り焼き豆腐」のレシピを確認していて、その理由らしきものが解ってきた。「手作り焼き豆腐」のレシピでは確かにフライパンで焼くだけとされているが、そのフライパンは「焦げ付かないフライパン」限定なのだ。

 私はこれまで「焦げ付かないフライパン」を持っていなかった。つまり「手作り焼き豆腐」を作ろうとすれば、わざわざ「焦げ付かないフライパン」を買うしかなかったのである。つまり「焦げ付かないフライパン」の不在によって、私にとっては「焼き豆腐」こそが安価であり、「手作り焼き豆腐」は検討に値しないくらいの贅沢品だったのだ。つまりこのように「焼き豆腐」と「手作り焼き豆腐」の意味は人によって異なる。それも圧倒的に異なるのである。

 しかしここにまた曖昧な前提があることも忘れてはならない。仮に「焦げ付かないフライパン」があったとしてもそれが「手作り焼き豆腐」と結びつく可能性は、決して高くないかもしれないのだ。

 最初にこのツイートを見た時に深く考えさせられたことを思い出す。確かにレシピサイトを見ればフライパンで焼き豆腐を作ることはごく自然なふるまいであるかのようにさえ思えるのだが、仮にフライパンがあつたとしても、それで焼き豆腐を作ろうとするには、できるだけ安価に自宅ですき焼きを食べようという意思と、木綿豆腐と焼き豆腐の圧倒的な価格差が存在しなければならない。つまり三倍の価格差は手作り焼き豆腐の必要条件なのだ。

 しかも牛すき焼き膳よりも安価にするためには、牛肉の購入価格がかなり抑えられなくてはならない。

 それだけではなく「フライパンの用途に関する正しい知識」が必要なのだ。しかしそもそも「フライパンの用途に関する正しい知識」とはなんだろうか。フライパンなどそもそもどう使おうが自由なもので、フライパンで焼き豆腐を作ろうとすることなど、そもそもかなり限定的な条件下における一つの思想に過ぎないのではなかろうか。そしておそらくグーグルはフライパンを持っておらず、焼き豆腐も作らず、自分で何かを考えてさえいない。グーグルは腹も減らなければ、生きてさえいない。だから「焼き豆腐」という音声を聞き取ることが出来なかったのだ。

 前回私は「ただ時の権力者に担がれる朝廷という見立てを、大久保湖州という埋もれた歴史家を面白がる形で引用しただけである。しかしこの見立てはまさに天皇が摂政によって担がれ、形骸化していた時代に於いてはかなり剣呑なものなのではなかろうか。」と芥川龍之介の天皇観について書いた。

 そこで私は「担がれる」ことを「形骸化」とした。お飾りという意味だ。しかしこれを「利用とした」と言い換えてみるとどう考えても「有効化」なのだ。

 これが担がれるフライパン。

 これが飾り物にされるフライパン。

これは流れ弾に当たったフライパン。

 感情を持つフライパン。


 歪曲されるフライパン。

 玩具にされるフライパン。こうして見ていくとフライパンとはまさに天皇制そのものではなかろうか。そのフライパンなしで手作り焼き豆腐は存在しえないが、手作り焼き豆腐なしでもすき焼きは存在し得る。鍋があればいいのだ。木綿豆腐の三倍の価格の焼き豆腐を買い、すき焼きを鍋で作る事これもまた一つの思想である。

われわれと世界とを対立状態に置く恐ろしい不満は、世界かわれわれかのどちらかが変われば癒される筈だが、変化を夢見る夢想を俺は憎み、とてつもない夢想ぎらいになった。しかし世界が変われば俺は存在せず、俺が変われば世界は存在しないという、論理的につきつめた確信は、却って一種の融和に似ている。ありのままの俺が愛されないという考えと、世界とは共存し得るからだ。そして不具者が最後に陥る罠は、対立状態の解消ではなく、対立状態の全的な是認という形で起こるのだ。かくて不具は不治なのだ……。(三島由紀夫『金閣寺』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 三島は天皇と交換可能な金閣寺を書いたと言われる。溝口は金閣を焼くことによって、この柏木の世界を変えることができただろうか。溝口はわざわざ金閣を焼くのではなく、焼いてある金閣寺を買ってくれば良かっただけなのではなかろうか。美というものは虫歯のようなものだ。動物にはそんなものは要らない。木綿豆腐をフライパンで焼いて焼き豆腐を作るなんて人間だけがすることだ。












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