『彼岸過迄』を読む 18 調子はずれの「へえー」
彼が耶馬渓を通ったついでに、羅漢寺へ上って、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女と擦れ違った。その女は臙脂を塗って白粉をつけて、婚礼に行く時の髪を結って、裾模様の振袖に厚い帯を締しめて、草履穿きのままたった一人すたすた羅漢寺の方へ上って行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもう締っているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑を洩らすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の弁口を迎えるのが例であった。(夏目漱石『彼岸過迄』)
最近になってこの部分を読むと、村上春樹さんの『クリーム』を思い出します。「要するに」でまとめられないし、また「落ち」もない話を「そのまま」受け止めることについて考えさせられ、開かれないピアノリサイタルについて考えさせられます。「敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って」とありますが「女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである」は、ふつうはまだ「へえー」という反応をするべき場面ではなく、まだ「ふり」ですよね。
招待状を貰ってリサイタルに行った。正装して花束を持って。しかし指定された場所は閉ざされ、人の気配がない。ここまでは普通「ふり」です。『クリーム』では公園でたまたま通りかかった老人に「中心のない円」の話をされますが、これでは落ちません。『一人称単数』に限らず、村上春樹作品の殆どは「ふり」に対する「落ち」はないのですが、『クリーム』は小品乍らそこを敢えて強調して仕上げられた作品のように思えます。
一方夏目漱石作品はこまかい「ふり」と「落ち」で構成されていて、時には一文のうちに「ふり」と「落ち」が仕掛けられていることさえあります。また大きな構成の中で「ふり」と「落ち」が仕掛けられていることは珍しくありません。
大きな「ふり」と「落ち」と言えば、例えば酒鬼薔薇君の『絶歌』ですね。前半が「切断キ〇」なので後半で「溶接キ〇」になります。
夏目漱石作品で言えば、徹底して色を隠す『三四郎』と眼球から色を出す『それから』の関係ですとか、教師の扇動によって生徒が白井道也を追い出す『野分』と、あくまで教師の関与はぼかされる『坊っちゃん』の関係など、「ふり」と「落ち」は作品間にまで拡大されます。
つまり『坊っちゃん』だけを読んでいると、赤シャツと野だが、
「また例の堀田が……」「そうかも知れない……」「天麩羅……ハハハハハ」「……煽動して……」「団子も?」
言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話をしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸の顔にめんじてただ今のところは控えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。(夏目漱石『坊っちゃん』)
……こんな話をしていても、どうもぼんやりとしか受け止められないわけです。しかしそもそも「おれ」は父親の依怙贔屓に気が付かない程度に、思い込みの激しい男なので延岡が浜辺の街であることに気が付かない程度に、山嵐の「裏」に気が付かないわけです。読者も同じでしょう。
それが『野分』を読むと「あれ? そういえば」とようやく気が付く訳です。「こういう風にも解釈できるな」とはなるわけですが、何か明確な答えが出来上がるわけではありません。飽くまで漱石に幻惑されるだけです。
さて「へえー」に戻りますが、やはりこれは変ではないでしょうか。タイミングとして可笑しいですよね。漫才なら突っ込まれています。「どのタイミングでへえーだよ‼」と云いたいところですが、案外このことも指摘されませんね。『クリーム』を読んで「へえー」とは言えないんですよ、普通は。色々な仕掛けには感心しますけど。
漱石はこの敬太郎の傾向に関してこう説明しています。
敬太郎のこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語という書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼は大の英語嫌いであったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付けたのでも、彼がいかにそれを面白がっていたかが分る。(夏目漱石『彼岸過迄』)
こんな部分も今読めば、村上春樹さんの『シェエラザード』を思い出さざるを得ません。『千夜一夜物語』は総じていえば「結末のない不思議な話」であり、日本人からしてみれば異国情緒のある話です。と云いながらどんな訳で読んだかによって少しずつ印象が違うと思います。『シェエラザード』は『女のいない男たち』に収められた短編で、結構セックスします。なんだこれ、と思ってしまう作品です。思い出してみると子供時代に読んだ話って結構「なんだこれ」なんですよね。
不思議なものってただ不思議なだけで、別に「落ち」とか結末ってないんですよね。教訓も哲学もなくて、読んでためになるということもないもので、それを、「其處に漱石の寫實主義の限界があつた」とか「克服されなかつた漱石の遊戲性」とか「作者の暗い人生展望が其處にまづ露頭を示してゐる」なんて言われる筋合いはないのではないかと私は思います。
いや、漱石自身が調子はずれの「へえー」であらかじめそうした凡そくだらない文芸批評を跳ねのけているように思えるのです。つまりこの調子はずれの「へえー」の落ちは、片岡良一みたいな上っ面の批評が全部吹っ飛ばされている現状にあるのではないでしょうか。事実としてこの「へえー」が捕まえられている人がいませんよね。近代文学1.0ではみな調子はずれに相槌を打っています。そこじゃないんだと誰も言いません。その調子はずれを揶揄うのが「へえー」でしょう。『女のいない男たち』に収められた短編の主人公の多くには女がいます。やたらとセックスが描かれます。『ドライブ・マイ・カー』経由で読んだ人には「なんだ、これ」じゃないですかね。しかしそこじゃないんですよ。セックスをするしないの話ではないんですよ。
全ての優れた小説にはサブテーマとして「小説とは何か」という問いと試みが隠れています。すぐれた作品である以上、意匠を示さざるを得ず、それがとりもなおさず文芸批評に対する抗弁のように受け止められることがあります。『坑夫』では露骨に認識論や小説論が語られますが、露骨に語らずとも、どんな作品でもそれが具体的である限り、ある主張として機能してしまうことがあります。『女のいない男たち』は「女がいないとは単にセックスをするとかしないということではないのだ」と語っているように見えます。また「おれはセックス小説を書き続けていたわけじゃないんだ」という強い姿勢が見て取れます。だから『シェエラザード』では別にしなくても成立するのにセックスをするわけです。『彼岸過迄』の調子はずれの「へえー」も、漱石の強い姿勢の表れのように見えます。漱石botに物申したいわけです。
私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか。(夏目漱石『こころ』)
とか、
「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」(夏目漱石『それから』)
とか、確かに名セリフですよ。それが名セリフだということは誰の目にも明らかでしょう。しかし漱石の凄さが現れているのはむしろこの調子はずれの「へえー」でしょう。『一人称単数』で「恥を知りなさい」と罵られた時、私は「へえー」っと思いました。原因不明で、恐らくは誤解で、しかしどうしても後ろめたさがぬぐい切れない罵倒で締める作法に、「へえー」っと思いました。
本当は完全に身に覚えがないわけではなくて、主人公は「中華料理が食べられない」ことを口実に、しばしば妻を一人で(?)外出させていたわけです。お酒にはゆっくり飲むロングドリンクとぱっと一息に飲むショートドリンクがあるのに、敢て廻りの早いショートドリンクのカクテルを飲みながら、普段着ないスーツを着て、探偵小説を読んでいる訳です。その隙に「恥を知りなさい」という罵倒が見事に食い込んできます。
『彼岸過迄』は「なるほど」の話ではないんですね。落ちのないところに「へえー」と感心する話です。よくよく考えてみれば『吾輩は猫である』にしても『坊っちゃん』にしても「なるほど」の話ではなかったですよね。
しかしやはり「其處に漱石の寫實主義の限界があつた」とか「克服されなかつた漱石の遊戲性」とか「作者の暗い人生展望が其處にまづ露頭を示してゐる」なんて言われる筋合いはないと思います。
「存在意義」?
そんなものは「へえー」に気が付かない人「中華料理が食べられないこと」の別の意味に気が付かない人には永遠に解らないでしょう。
[余談]
三島由紀夫は俳句は詠まなかったと言い張る人がいなかっただろうか。
三島由紀夫はとても良いお坊ちゃんだったことが解るサイト。
更新がないがお元気なのだろうか。
心がすさんだ方はご一読を。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?