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岩波書店・漱石全集注釈を校正する46 じんじん端折りの銀箭微塵棒針を棄て去る蜜のごときもの

じんじん端折り

 もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳わけには行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募ってはおらん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。

(夏目漱石『草枕』)

 大抵の馬は人間より顔が長い。馬より顔の長い人間は見たことがない。ここに注はつかない。注は「じんじん端折り」につけられる。

じんじん端折り  歩きやすいように、あるいは雨などで濡れないように、着物の後ろの裾をからげて帯の結び目に下から差し込むこと。「爺端折」の転訛。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。語源については諸説あり、「神事端折」というのもある。「サンショウパサミ」というのもある。また帯に差し込む向きにも諸説ある。

〔じんじん端折り〕裾からを摘んで帶に挾むこと七八寸上にある脊縫の所神事端折の意か、一說には、ぢんぢ端折で、ぢんぢは爺の音便であると。


草枕 : 新註 竹野長次 編精文館書店 1928年

じんじん端折-「爺端折」又は「神事ばしより」の書便といふ。衣の背縫の裾より七八寸上を摘み、これを帶の結目の下に折込むこと。

おらが春 小林一茶 [著]||藤村作 註解栗田書店 1935年

サンショウパサミ所謂爺端折のことだといふが(陸中上閉伊)、この名の來由を明かにしない。ネヂバセ尻を端折ることを阿波の美馬郡ではネヂバセといふ。

服装習俗語彙 柳田国男 編民間伝承の会 1938年


浮世床 : 柳髪新話 式亭三馬 著栄文舎 1886年

〔爺端折リノ音便、氣ノキカヌ體裁カラ]。脊縫ヒノ裾カラ七八寸上ノ處ヲ摘マンデ帶ビノ結ビ目ノ下ヘ端折リ込ムコト


日本大辞書 第9巻 す,せ,そ,た,ち,つ 山田美妙 編日本大辞書発行所 1893年

  また「あづまからげ」というのもでてきた。

大日本国語辞典 第3巻す~な 上田万年, 松井簡治 著金港堂書籍 1917年

 フランス語に訳されている。

和仏大辞典 ルマレシャル 編訳天主堂 1904年

また「おしょぼからげ」というのもでてきた。

言泉 : 日本大辞典 第1巻 落合直文 著大倉書店 1922年

謠曲拾葉抄の融の謠「あづまからげの鹽衣」の註に、一條禪閣の說を引き「あづまからげはかゝげ也」と見える。要するに、關東風の着物の揭げ方を云つたのである。
烏帽子折の「今若はおとなしく、あづまからげに脚絆締め」を、蜘蛛の糸卷の「白き脚半にじんじんばしより」に照らし合せると、似たり寄つたりの姿に思へる。關西で「おしよぼからげ」と云ふのも同一である。

評釈おらが春 勝峯晋風 著十字屋書店 1941年


国文熟語詳解 小倉博 著文武堂 1906年


嬉遊笑覧 上 喜多村信節 著||日本随筆大成編輯部 編成光館出版部 1932年

 さらに「勢多折」まで。「神事端折」「サンショウパサミ」「あづまからげ」「おしょぼからげ」「勢多折」……ここまで色々あるからには語源に関してはなお精査の必要があろう。それにそもそも現代では「からげる」が解らないかもしれない。何しろ私もからげたことがない。今、からげたことのある人はごくわずかだろう。まあ、からげる機会はなかなかない。ここの説明はもっと別の表現で、例えば「めくって」とすべきか。
 それにしても帯の下から差し込むものだろうか。上からの方が取れにくいと思うが。


幾条の銀箭が斜めに走るなか

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己を忘れ尽つくして純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保たもつ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。

(夏目漱石『草枕』)

 この「銀箭」に岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、

銀箭  本来の意味は水時計・漏刻の目盛りである銀製の矢・棒。夕立のはげしい雨脚を表現して幸田露伴が『魚』の中で「豪雨銀箭の如くに降り」と用いた。(『蝸牛庵瑣談』明治三十八年一月「心の花」初出。『潮待ち草』東亜書房、明治三十九年に収載)。漱石の用法は露伴の用法によるか。久保忠夫『三十五のことばに関する七つの章』(一九九二)の二三三頁を参照。現在ではこの用法は定着している。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……としている。「現在ではこの用法は定着している」というのはたしかにそう。

 竹春の銀箭掻き埀る漏路自り隱々とさ走り來る壱騎ありき。眥掻ひ撫ぜ、喝道に常體ならぬ光芒を發ち、卓犖の猛士駸々洛へと驅けつ。綻裂けし闕腋の袍か、鎧直埀にや、物難しかる黒革威に槻弓荷ひて、搖らかすは何處より遣してけむや、銀が魚袋に、蔦の飾彫らるる參尺の銕如意なるべかんめる。日角濡ちて剃り杭の髭勝ちなるが仰け兜に、勢漸う勇壯ましげに雄跨しき。

(小林十之助『城』)

 なるほど。小林十之助が使っているくらいだから随分カジュアルな用法だということだ。ゲリラ豪雨とルビを振ってもいいかもしれない。しかし漱石のこの「銀箭」が露伴の用例によるものかどうかは聊か怪しい。たとえば、

百萬銀箭射九。須史雨収雲亦。群山如レ沐翠。苗浦云前面皆黄飛橋跨二山腹。一。一路貫二前山一。懸泉數百丈。使二人肝膽寒。未レ乾。乃将一軽形一曝二晩驀地黒風二山樹一三軍突戦開聲。然暴雨地未レ乾。

澹如詩稿 6巻 [2]菊池澹如 著||桑原桂叢 画

 この菊池澹如は、菊池淡雅(1828-1862 通称孝兵衛、字は介石、介之介)であり、幕末の豪商,尊攘運動家である。この表現は当然露伴に先んじていて、また現在の用法に近い。

銀箭簇々諸君カ頭上ヲ撲ツモ。是レ唯此ノ雲時ニアル而已唯此ノ處ニ止ル而己。四邊ノ乾坤ハ固ヨリ靑天白日也。故ニ諸君ハ之ヲ日本ノ小時勢ヨリソハ。不幸ノ塲合ニ在リ。ヲヲ坤興ノ大時勢ヨリメハ幸福ノ塲合ニ在矣。

新日本之青年 徳富猪一郎 著集成社 1887年

 またこれはどうか。1887年は明治二十年である。この時点で明らかに「水時計・漏刻の目盛りである銀製の矢・棒」という意味は捨てられている。


文の庫 矢崎嵯峨の屋 著春陽堂 1896年


 矢崎鎮四郎、矢崎嵯峨の屋は嵯峨の屋おむろである。この時点でほぼ完全に小林十之助の用法と一致している。1896年は明治二十九年である。

 そして幸田露伴自身にも、

らぬ狹き間にて一丈餘の竿を使ふは隻手の業には隨意ならず、少時は魚と人と爭ひしが、魚の勢やうやう屈して、此時恰も雨募りて天より萬枝の銀箭の下るが如くに降る中に、尾鰭を怒らせて暴れ立ちながら舟舷近く引き寄せらるれば

長語 幸田露伴 著春陽堂  1901年

 こうした用例が既にある。1901年は明治三十四年である。さらに、

この時、雨は凄じく降り注いで銀箭紛々、空に滿つとも、言ひたい程である。
賴むは一枚のござであるがそれも强い風にあをられて、何の役にも立たない峨々たる石徑、蛇の如くのたくつて々として、で銀箭紛々、の役にも立たない谷に下りるので、ねぢけた樹木を手がゝりにして、飛ひcはねる、その
折しも暗雲壑底より湧き、瀰漫して天界にひろがり、大雨斜に注ぎ、萬條の銀箭空中に紛飛す、壯觀限りなし。

檜木笠 : 紀行文集 久保得二 著博文館 1901年

 同年、漢学者・久保天随、久保得二にやはりこうした「銀箭」の用法がある。してみるとまず疑われるのは漢籍に既に「銀箭」の雨の意味での転用がなかったかということだ。漢学の知識のない者が文字面だけで「銀箭」を雨のイメージで捉えなおしたと考えることがむしろ不自然であろう。
 それに幸田露伴の性格を考えれば、むしろ本来の字義に拘る方なので、自分勝手に根無し草のアクロバティクな用法を編み出したとは考えづらい。

唐の則天武后は驕慢のあまりに、勝手な造字をした。人として、文字を造る位贅澤なことはない。現代にもなほ武后の造字十五、六位は殘り傳へられてゐるであらう。圀といふ字もさうだ。水戶光圀に依つて我々の目に親しいが、なぜ武后のやうな恐ろしい女の造つた文字を用ひたのであらうか。水戶の家中には多くの學者がゐた筈であるのに不思議なことだ。(『落穂抄』)

 当然漱石が今今幸田露伴がひねくり出したばかりの珍表現を真似るものでもあるまい。まず「銀箭」の雨の意味での転用は明治以前にさかのぼることが出来るという前提で、あせらずじっくりと調べ直すことが必要ではなかろうか。まずは私の本を読み、そこから始めると良いだろう。


胡麻ねじと微塵棒


「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと二声で鶏を追い下さげる。ここここと馳かけ出した夫婦は、焦茶色の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。
「まあ一つ」と婆さんはいつの間にか刳り抜き盆の上に茶碗をのせて出す。茶の色の黒く焦げている底に、一筆がきの梅の花が三輪無雑作に焼き付けられている。
「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねじと微塵棒を持ってくる。糞はどこぞに着いておらぬかと眺めて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。

(夏目漱石『草枕』)

 近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だと何度も書いてきた。その証拠に、こういうことは必ず調べられている。

【胡麻ねぢ】胡麻の實を飴と砂糖とにて固め柱狀になして捻ぢたる駄菓子なり。【微塵棒】糯米を碾き粉となして炒りたるものを微塵粉といふ。其の微塵粉を砂糖にて固め細長くしたる駄菓子を微塵棒といふ。

女子国文読本備考 巻5 金港堂編輯部 編金港堂書籍 1926年

胡麻ねぢ 微塵粉と胡麻と飴とを混ぜて平たく細長くして、ねぢつた駄菓子。

国語科教授の実際 : 帝国読本提要 巻1 富山房編輯部 編富山房 1937年

 これに対して岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、

微塵棒  駄菓子の一種。微塵粉(もち米の粉)と砂糖を原料に、棒状にして少しねじったもの。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……としている。つまり微塵粉がもち米を細かくして炒ったものだという認識が欠如している。と、そこまで大袈裟に云うことではないな。


針を棄て去る蜜のごときもの


 踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣いも起こる。戴くは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖れも出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦くは免かれぬ。東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。目に見る富は土である。握る名と奪える誉とは、小賢しき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜のごときものであろう。いわゆる楽しみは物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客がかくなるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐とし、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。

(夏目漱石『草枕』)

 ここを岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、

針を棄て去る蜜の如きもの  蜜をもたらすとみせて実は針で刺す、という意味の似た表現として『一夜』、『虞美人草』「二」などには「蜜を含んで針を吹く」とある。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……とする。針は棄て去ったのだからもう刺せないのではないか。

「針を棄て去る蜜」とは、表面だけ美しく立派なものに見えて、苦痛を伴なうてゐるものの意であらう。

受験標準現代文新釈 竹野長次 著三省堂 1934年

「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨くはない。
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝でも焚き込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様の解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい

(夏目漱石『一夜』)

 これは作品を解釈する上で極めて重要なポイントだと思うのだが、初期の漱石作品はかなり幻想的な味わいで、いわば何とも解釈のできないふわふわしたものだった。それが後に多少分かりやすくもなったところもなくはないとして、全部が解るということにはならない。
 たとえばそれは、

 こんな形で後期の作品にも残る。たとえばここを現代文の解釈として試験に出してはさすがにまずいのではないかと思う。「いわゆる楽しみは物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む」というところから、何とか意味は汲み取ることが出来なくもないとして「小賢しき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜のごときもの」という表現は十分に意味に到達していない。「針を棄て去る蜜」では駄目で「針を隠した蜜」「針を含んだ蜜」「針が纏った蜜」……とでもしなくてはならないところを、漱石は「針を棄て去る蜜」と書いた。この十分に意味に到達していない感じそのものを受け止める必要があるのであって、ここは漱石が少しラフだなあ、巧く言えてないなあと読めばよいのではなかろうか。すこぶる解しにくいところも含めて漱石の味わいである。


[余談]

 なるほど『草枕』はすこぶる解しにくい
 
こんなものにすらすら注釈をつけられる人は凄いと思う。しかしこれは個人の職人技ではなんともならないもので、これからはテキストベースの検索機能によって精度を上げて行く必要があるのではなかろうか。
 それにしてもこれを翻訳している人もいるんだから恐ろしい。DeepLなんか、そうとう端折るぞ。じんじん端折りだ。


ふーん星人か。

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