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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか42 多分あなたは気が付いていない

 もしも新人作家がこんな原稿を持ち込めば、親切な編集者はたちまち注文を付ける。あるいは即座に原稿をゴミ箱に捨てる。(苛立たし気に叩き込む。)

 海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇っていた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思い出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまっていた、鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色さえ示さなかった。のみならずまん中にとまっていた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

(芥川龍之介『歯車』)

 繰り返し何度も眺めながら、何も読もうとしない頑固な人々はまだ何のことかわからないだろうか。

 烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨みが凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡にれの木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。希臘風ふうの鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒そうだから、麺麭をやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥に漾ようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何かりりで考えているかと思わるるくらい澄ましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入いる。

(夏目漱石『倫敦塔』)

 倫敦塔に断頭吏はいるが絞首吏はいない。鴉が三羽でてきたところで『倫敦塔』を思い出さない漱石門下はいないだろうし、二羽では真ん中はなく、三羽でなくてはならないという理窟が分からない郵便配達員も相撲取りもヤクルトおばさんもいまい。ただ芥川龍之介の眺者だけがそんな理屈が理解できない。

 海は低い砂山の向うに面に灰色に曇っていた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思い出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまっていた、鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色さえ示さなかった。のみならずまん中にとまっていた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かにたび声を出した。

(芥川龍之介『歯車』)

「一面」「ニ三羽」「四たび」、つまり真ん中にいた鴉が四回鳴いたのが確かなら、鴉はニ三羽ではなく、確かに三羽いたんじゃないかとベテラン編集者は云うかもしれない。足の親指の爪に黒い垢を貯めながら、黒くても「あか」とは妙だとも思わないまま。
 いえ、四回鳴いたのは確かなんですが、二羽か三羽かははっきりしないのです、と言い訳をしたとして、でも真ん中が鳴いたのは確かなら、両端がいたということで、と食い下がられるだろう。
 そこに女が現れ「あの鴉は五羽います」という。
 あの鴉は? 腹の出た編集者は困惑する。何故女は「あの鴉は何にも食べたがっていやしません」というのかと。それはおそらく麺麭よりも確かなものを食べて来たのだという「お知らせ」に過ぎない。

 残りの二羽はまだ食べている途中でしょうが、と。

 しかし『歯車』の何羽いるのか不確かな鴉は腹を減らしている。誰かが死ぬのを待っているからブランコ台にとまっているのだし、この男はもう真ん中に鴉がいるのに二羽か三羽か分からなくなっている。

 この往来は僅かに二三町だった。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は度も僕の側を通って行った。

(芥川龍之介『歯車』)

 一町って、何メートル? もう孫もいる編集者は尋ねる。去年からNISAとiDeCoを始めた。百メートルと一寸です。なら、二百メートルか三百メートルの間に、四度犬が通るのは多いな。それでつまり、半面だけ黒い犬って右左、背中とお腹? 残りは白いの? 

 僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。

(芥川龍之介『歯車』)

 この「黒犬」とさっきの「半面だけ黒い犬」は同じなの? 別なの? 同じだとしたら「半面だけ黒い犬」って「黒犬」と呼ばれてしまうわけだ。半分なのに。

 あしゅら男爵はどうなるのかな。

 それにしたって、「それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた」ということは、いつの間にかその犬を「僕」が手懐けていたということになるね。唾液のついたビスケットでもやって。別だとしたら、少しやかましすぎないかな。

 え?

 それが「誰にもわからない疑問」?

 さて、この黒犬は妻の実家の飼い犬でしょうか?

 それとも半面だけ黒い犬でしょうか?


 「僕」は「黒犬」が妻の実家の飼い犬であることをすっかり忘れていて、「半面だけ黒い犬」は「僕」を覚えていたから、「二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は度も僕の側を通って行った」んじゃないの?

 


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