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『行人』を読む 14 妙な囈語とは何か?


「もっともこの間少し風邪を引いた時、妙な囈語を云ったがね」と云った。
「どんな事を云いました」と自分は聞いた。
 母はそれには答えないで、「なに熱のせいだから、心配する事はないんだよ」と自分の問を打ち消した。
「熱がそんなに有ったんですか」と自分はさらに別の事を尋ねた。
「それがね、熱は三十八度か八度五分ぐらいなんだから、そんなはずはないと思って、お医者に聞いて見ると、神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になるんだってね」
 医学の初歩さえ心得ない自分は始めてこの知識に接して、思わず眉をひそめた。けれども室が暗いので、母には自分の顔が見えなかった。
「でも氷で頭を冷したら、そのお蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど……」
 自分は熱の引かない時の兄が、どんな囈語を云ったか、それがまだ知りたいので、薄ら寒い襖の蔭に依然として立っていた。(夏目漱石『行人』)

 この記事で「霊妙な手腕」は飽くまで「霊妙な手腕」だとしたのはいかにも無責任だと感じられた方もあるのではないでしょうか。それが具体的に何かを言わなくては意味がないと。それがロジックだろうと。

 しかし「『三四郎』の謎について」で何度か書いたように、漱石作品には、

①解らないこと

②解ること

③解らないけれど解るような感じのすること

 ……という謎があります。①解らないことの解らなさにもいくつかのパターンがあって、例えば、

野だは大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 これはチンピラやくざ以上の極悪人なら「そうだ、そうだ」と解る事なのかもしれませんね。しかし何故そこ迄言われなくてはならないのか私には解りません。何か屈折した別の恨みをどこかから持ってきているとしか思えないのです。作品の中には野だがここまで言われる理由は見つかりません。

 角屋で野だと赤シャツがなにをしていたのか、これは書かれていないので分かりません。解りませんがどうも良からぬことです。暴力を振るわれたのに警察に届け出なかったのはそのためでしょう。

 一郎の妙な囈語は書かれていないのでどんな内容なのかは分かりません。これは「側」だけで中身がないので解らないこと、です。綱が言わないので分かりません。しかし解ることがあります。それはおそらく二郎に関係することで、二郎には聞かせられない内容であり、にもかかわらず二郎に釘を刺しておきたいような内容だったのではないでしょうか。

 そしてもう一つ解ることがあります。綱が一郎の看病をしているという事実です。芳江の世話があるとはいえ、直は一郎に付きっ切りで看病していたわけではなく、高熱で妙な囈語を云う一郎の床の傍らには綱がいたということです。氷で頭を冷したのは綱です。となると付きっ切りどころか、直は高熱の夫をほったらかしにしていたということになるのではないでしょうか。このあたりのこと、みなさん気が付いていましたか?

 そしてここに一郎の「精神病正直理論」を当て嵌めると、この妙な囈語こそが「普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遥かに誠の籠った純粋のもの」だという理屈になります。

 ああ、ここに持ってきていたのか、という感じのする下りです。そしてここでその妙な囈語の中身を一切書かないのが漱石らしいところですね。

 勿論「精神病正直理論」は一郎の勝手な理屈で、妙な囈語はたんなる囈語だったのかもしれませんが、綱が「妙な」と言っているところが凝っています。囈語なんてそもそも殆ど意味をなさないものでしょうが、「妙な」とは「気になる」という意味で、きっと曖昧ながら何か意味をなし、かつ意外な内容だったということでしょう。綱は医者に相談し頭が変になったと決めつけ、その妙な囈語を一旦なきものにします。

 しかしこの綱の「ふり」が二郎を「探偵」にします。漱石の嫌いな「探偵」に。「側」だけで中身のない妙な囈語が「霊妙な手腕」のように筋を運んでゆきます。


[余談]

通りは静であった。自分はわれ知らず空を仰いだ。空には星の光が存外濁っていた。自分は心の内に明日あすの天気を気遣った。すると岡田が藪から棒に「一郎さんは実際むずかしやでしたね」と云い出した。そうして昔兄と自分と将棋を指した時、自分が何か一口云ったのを癪に、いきなり将棋の駒を自分の額へぶつけた騒ぎを、新しく自分の記憶から呼び覚ました。
「あの時分からわがままだったからね、どうも。しかしこの頃はだいぶ機嫌が好いようじゃありませんか」と彼がまた云った。自分は煮え切らない生返事をしておいた。(夏目漱石『行人』)

 この場面、『坊っちゃん』の「おれ」と兄の関係が二郎と一郎に入れ替わっているようで、ますます一郎が小柄な印象になりませんか?

 ならない。

 はい、そうですか。









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