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記憶の汚染が起きている 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む69

根本的な帰属の誤り

 認知バイアスというのは誰にもある。過誤記憶というのもその一つであり、根本的な帰属の誤り同様頻繁にみられるものだ。

 昨日私は、

 この後、かなりのページを割いて東京大空襲が描写されるが、「戦争体験」としての空襲の主題化については、『仮面の告白』及び『金閣寺』と、幾つかの点で、注目すべき違いがある。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 という518ページの記述が間違いであることだけ示した。

 それはかなり深刻な間違いであり、脳に深刻なダメージ(三日間寝ていないなど)があるのではないかと本気で疑っている。

 それは520ページに書いてあることと付け合わせると、決して冗談でも大げさな話でもなくなる。私が彼らのうちの誰か、つまり平野啓一郎とそのゆかいな仲間たち、および小林秀雄賞の審査委員および関係者の身内か友人であったなら、直接プラスメッセージで休養を促すだろう。

 そこにはめまいが起きそうなことが書いてあるからだ。

 『仮面の告白』及び『金閣寺』では、主人公の死の意識に於いて、空襲とその予感は強烈な意味を担っていたが、『暁の寺』で巨細に描写された東京大空襲は、本多とはほとんど無関係な出来事として示されている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 やはり平野啓一郎とゆかいな仲間たちは確かに『暁の寺』の中にあったものとして東京大空襲の巨細な描写をどこかで確実に読んだ、と思い込んでいるのだ。そしてその記憶を『仮面の告白』及び『金閣寺』と見比べて、その相違点を確認しているのだ。

 しかし何とも恐ろしいことに、『決定版 三島由紀夫全集』の『暁の寺』にはそれがない。あるかないかで言えばない。この現実とどう折り合いをつければいいのであろうか。

 実際平野が見たものは『決定版 三島由紀夫全集』の『暁の寺』の中にある記述と合致しているようだ。

 『暁の寺』で、ようやく正面から描かれた「阿鼻叫喚」や死臭、辺り一面の焼趾も、ひたすら客観的な認識対象でしかない。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう平野は書いているので、

 窓からは六月の光りの下に、渋谷駅のあたりまでひろびろと見える。身近の邸町は焼け残つてゐるが、その高台の裾から駅までの間は、ところどころに焼ビルを残した新鮮な焼趾で、ここらを焼いた空襲はわづか一週間前のことである。すなはち昭和二十年五月二十四日と二十五日の二晩連続して、延五百機のB29が山の手の各所を焼いた。まだ、その匂ひがくすぶり、真昼の光りに阿鼻叫喚の名残が残つてゐるやうな気がする。
 火葬場の匂ひに近く、しかももつと日常的な、たとへば厨房の焚火の匂ひもまじり、又ひどく機械的化学的な、薬品工場の匂ひを加味したやうな、この焼趾の匂ひに本多ははや馴れてゐた。幸ひ本郷の本多の家はまだ罹災せずにゐたけれども。
 頭上の夜空を錐で揉むやうな爆弾の落下してくる金属音に引きつづき、爆発音があたりをとよもし、焼夷弾が火を放つと、夜は必ず、人声とも思へぬ、一せいに囃し立てる嬌声のやうなものが空の一角にきこえた。それが阿鼻叫喚といふものだと、本多はあとから心づいた

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この143ページから144ページにかけての記述の中から、何かを拾ったことは間違いない。しかし微妙にずれがある。

〇 ところどころに焼ビルを残した新鮮な焼趾

✖ 辺り一面の焼趾

※145ページに「見わたすかぎり、焼け爛れたこの末期的な世界は」とあるので解釈の仕様によってはこれは間違いではないともいえる。しかし本郷の家は焼けていないので、この表現そのものはやや抽象的に捉えるべきであろう。

〇 それが阿鼻叫喚といふものだと、本多はあとから心づいた。

✖ 正面から描かれた「阿鼻叫喚」

※ここで本多は声の記憶を後で意味づけしている。本来の阿鼻叫喚は「さま」であり、ここでは視覚情報に欠いている。「本多とはほとんど無関係な出来事として示されている」という表現と「正面から描かれた」という表現は微妙に矛盾している。

〇 機械的化学的な、薬品工場の匂ひを加味したやうな、この焼趾の匂ひ

✖ 死臭

※私がある方から聞いた話では東京大空襲では効果的に安価に丸焼きにするために焼夷弾の前に重油が撒かれたということである。そうなると「機械的化学的な、薬品工場の匂ひを加味したやうな」という表現はよりリアリティのあるものである。『断腸亭日乗』では確認できなかった。

 一般に「死臭」とは腐敗臭のことだ。私は病院のエレベーターで今しがた遺体を運んだかのような強烈な死臭を嗅いだことがある。また二階の窓まですべて開け放たれた一軒家から甘ったるい臭いを嗅いだことがある。化学的な臭いでもないし、とても馴れられるものではない。

 ……とそう大きな隔たりのない、伝言ゲーム程度のずれがある程度のこと、のようにも見えなくもない。しかしこれが全体として「かなりのページを割いて東京大空襲が描写される」と見えるのであれば、自己欺瞞といった平野の性格ではなく、彼がどういう状況に追い込まれてこんなことになってしまったのか、その外部要因をこそ疑うべきではなかろうか。

 勿論彼が小説家であるがゆえに短い言葉から猛烈にイメージを拡大させ、巨細な描写を自分の中で創り上げてしまったという可能性はゼロではない。しかし平野啓一郎の勝手に創り上げたイメージが、誰かに伝染することがありうるだろうか。

 合理的に考えるとこういうことは、平野啓一郎が『暁の寺』そのものを読むのではなく、誰かが拵えた間違えたレジュメを参照した場合に簡単に起こりうる。それがレジュメでなくてもいい。

 例えば三島由紀夫がこう言ったとする。

 それはね、ま、意地悪な人が見ればね、あいつは苦労を知らん、戦争も知らん、目の前で貧乏も知らん、そうようなことからなったと言うかもしれないけれど、僕は僕なりに戦争を見ている。例えばまあ勤労動員に行ってですね、あの解からんが今機関銃でやられた、行くとつまり魚の血みたいなものがね、いっぱいあってね、箒でみな穿いている。僕らもあの艦載機が来たってぱっと穴の中に入ると穴の端にバババババと弾の跡が残っている。多少はねつまり、多少は見ている訳ですね。
 そしてあの平家物語のことではないけれど、人間はすぐ死ぬんだ、死ねばどうなるんだということを多少は見ている。
 僕は今の青年よりは多少は見ていると思う。
 ですから、これは相対的な問題で、俺は死体を百見たからお前より偉いとかそういうことは言えないと思う、またちょっと貧乏だったからお前より偉いとは言えない。例えば鴨長明が河原の死体を数えますよね、鴨長明が死体数えている時の、あの心情っていうのは僕はちょっと凄いと思うんですよね。
 その数ってのは、抽象的なもんですよね、もしつまりあの谷崎さんの不浄観みたいなね、もしそこから何かをつまり残酷さを通して何かをつかもうとするならば一つの死体で十分なんです。一つの死体をずっと見てればいいんです。で、鴨長明は数えるんです。つまり我々は戦争中にはね、鴨長明と同じ心情にいたんですよね。
 残酷さは確かにある。目の前で人が苦しんで死ぬ、あるいは焼死体になる、もう見るも無残ですね。しかし同時にね、それを処理する方法は数えるしかないんですよ。僕はそれが末世の心情だと思うんです。

(死の一週間前のインタビューより聞き書き)

 こう書かれていたので私は蓮田善明の『鴨長明』では鴨長明が死体を一つずつ数える場面があると思い込んでいた。そしてものすごい数の死体を数える理屈なので、その場面はかなり長いと思い込んでいた。しかし実際にはそういう場面はない。


 つまり、

編集者A あの東京大空襲のシーンなんか凄かったじゃないですか。渋谷なんかまる焼けで。

編集者B そうそう。死臭の下りなんかやたら生々しくて気持ち悪くなったよ。

編集者A  結構長々と書かれてましたよね。

編集者B 長いね。長いし細かいよ。 

編集者A 阿鼻叫喚でしたよね。

編集者B   阿鼻叫喚だよ。

平野   ………。

 こんなことがなかっただろうか。庇い過ぎか。


カルマの法則


 平野啓一郎はどういうわけか仏教用語には詳しく、その観念的な議論には付き合うものの、『暁の寺』に現れた現実的な因果応報には触れようとさえしない。しかしこのカルマの法則は観念としての仏教とシンメトリーを成しているところである。

「これが美しいですかね」
 と立止まつて、見上げた顔にしたたる汗を拭ひながら、菱川は言つた。
 本多はすぐさま菱川の悪癖が、古い発作のやうによみがへりつつあるのを感じた。その最初の兆候を見たら、ただちに打ち摧いてやるのが親切といふものだつた。
「美しからうが、美しくなからうが、それがどうしたといふんだね。われわれはただ招かれるままに、お目通りに来ただけのことぢやないか」

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ものには言い方というものがあるだろう。聞き流してもいいし、「そうかね」とでも言っておけばよいものを、「ただちに打ち摧いてやるのが親切といふものだつた」とは本多は他人に対していささか傲慢すぎやしないだろうか。そしてこの態度は明らかに認知的不協和を見せている場面である。

 それはあたかも、チャクリ宮全体の結構が、堅固で理性的なヨーロッパ風の冷たい基調を、いたづらに複雑、いたづらに色彩の鮮やかな、狂ほしい高貴な王族の熱帯風の夢想で押しつぶし領略することにあつたのではないかと、想はせるに十分だつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この「領略すること」は「領略するため」に改めた方が良い。あるいは「結構の目的」、「結構の意図」に改めるべきあろう。
 こうして余計なことを言ってしまったので、本多は当然菱川に反撃される。

「先生がさつき、『インドから飛行機で帰りたかつたが、軍用機で、座席がとれなくて』とお姫様にお話になつたでせう」
「さう言ひました」
「それを私が訳しまちがへて、ついそこへ本音が出て『これから日本へ飛行機で帰るが、軍用機で、あなたの分の座席まではとれないから、つれて行くわけには行かない』と訳してしまつたのです。それから『行つてはいやだ』『どうしても私をつれて行つてくれ』といふので、あの騒ぎになつたわけです。約束違反だと女官たちには睨まれるし、いやはや私の不調法で、お詫びの申し上げやうもございません」
 と菱川は涼しい顔で言訳をした。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 菱川は詫びているようで、わざわざどう考えてもあり得ない訳しまちがえで仕返しをしたことを告白している。

 あの世とこの世のからくりに因果応報の仕組みがあるかどうかは知らない。しかし現実には世の中はこの程度にリアルな因果応報の仕組みの中で動いていく。

 ミスは仕方ない。

 ミスは改めればいい。

 ミスならば。

 しかし居直ってしまった瞬間にミスはミスではなくなる。

 そのふるまいは必ず手厳しい報復に会うことだろう。

戦時中


 繰り返しになるが十三章から十九章まで、日米開戦直後から東京大空襲の前まで、本多はほぼ身体性を失い、輪廻転生の議論だけが続いていく。仮に兵隊にとられなくていい年齢であれ、日本国民である以上(毎日お茶会を開いていた高貴な方々は別であるが)、何らかの形で戦争に関わらずにはいられなかったのが戦争だった筈だ。しかし本多はまるで何の活動にも参加せず、ひたすら本の世界にいたかのように書かれている。

 この輪廻転生の議論そのものはいくつか平野啓一郎の『三島由紀夫論』でも拾われているわけだが、約四年間の本多の生活のなさについては言及されていない。ここはまるで十二章から二十章へタイムスリップしたような感覚になる構成であり、まさに年代記的記述を回避した仕掛けなので、その時間の表し方に関しては何か能動的な指摘があるべきところだったであろう。

 三島由紀夫自身の戦時中の体験と重ねてみれば、それはまさに『古今集』などを読むしかなかった時期でもあったわけだ。昭和二十二年に出たバルザックの『風流滑稽譚』という本のあとがきに「戦時中は紙がなくてなかなか本が出せなかったがやっと出せた。戦時中は皆本を読みたがっていたのでやっと本を出せてうれしい」という感慨が綴られていたのを覚えている。そんな時代に『暁の寺』に書かれているような優雅な研究が可能だったのかどうかは別として、例えば三島由紀夫自身にとってみても戦争とは、まさに本の中に逃げ込むことでやり過ごすべき事なのではなかったか。

 ところが平野はこんなふうに書いてみる。

 三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり、空襲は、その適切な位置づけを見出し得なかった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 何十回と読み返しても、この文章の前半部粉が解らない。後半はただロジックとして「空襲は受動的戦争」という妙な定義が取り出せるだけで、やはり三島の認識そのものに合致しているとも思えない。

 日本刀を振り回す三島と『F104』の三島だけを見れば「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」と言ってしまう人がいてもおかしくないが、この時平野啓一郎が見ているのは『暁の寺』なのだ。そこで本多は繭籠る。まあ、見事に。

 その本多を見ながら「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」という理屈が出てくるとしたら、どこかで記憶の汚染が起きている可能性がある。

 あるいは希望的観測なのか。

 少なくとも『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』から「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」などという考え方を見つけ出すのは困難であろう。平野が引いている通り、

「若者の果敢な愛国的行為を、遠くから拍手していればよい年齢だ。ハワイまで爆撃に行ったとは! それは彼の年齢からは決定的に隔てられている目ざましい行為だった」

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 本多は愛国的行為に無責任な拍手を送っており、目覚ましい行為と肯定もしてているが、それは能動的ではありえない他人ごとなのだ。三島自ら将校にならんと志願したわけではなく、受動的に徴兵検査を受けさせられた。能動的に主体的に戦闘行為に参加しようとしていたわけではない。

 平野の見立てに関わらずやはり『暁の寺』における十三章から十九章の本多の繭籠りには、戦争を「忌まわしいもの、迷惑なもの」と見做す三島の態度が現れてはいまいか。

 昭和二十年五月二十四日と二十五日の一週間後、本多は渋谷の高台から駅を見下ろす。全く当事者ではない。それは四十七歳だった本多の四年後のことだとしたら、もう五十一歳にもなるのだからしょうがない?

 昭和二十年六月二十三日、東京大空襲の一月後には、義勇兵役法が公布・施行されていて、

 原則として、15歳以上~60歳以下の男子および、17歳以上~40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした(第2条)。年齢制限外の者も志願することができた(第3条)。

 つまり激しい愛国心に燃えた本多が志願兵となり、男らしい戦闘に加わることは可能だったのだ。さらに言えば現実的には三島由紀夫も志願さえすれば戦闘に加わることが可能だったのではなかろうか?

五月末には全國各職域並に地域每に國民義勇隊が結成され更に七月から八月にかけては鐵道從業員船員等は義勇兵役法によつて義勇戰鬪隊に組織された。


満州事変以後の財政金融史

 このようにこの時期兵隊は再度かき集め状態だったのである。

 で、三島は何をしていたのか?

 少なくとも昭和二十年五月二十四日と二十五日の一週間後に本多を焼趾に立たせた三島由紀夫は「彼の年齢からは決定的に隔てられている」筈の戦争が間もなく急速に距離を縮めてくることを知っていた筈である。勿論徴兵そのものは寧ろより若年層に向けて拡大されることが現実的ではあったのだが、本多と違い三島は志願さえすれば前線に行くことが出来る状況にはあったのではないか。

 従ってこの「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」という表現は、現実的な兵役回避者三島由紀夫の徹底した女々しさをひっくり返って論うような、絶妙な批判になってしまっているのだ。

 つまり厭味としては成立するが、三島の認識そのものを正確に捉えた表現としては認めがたい。そのあたりの細かいことはまだ説明しきれないが、明日説明しよう。何故なら、今日はちょっと用事があるからだ。

 [余談]

 確か三島は宮城事件には触れていなかったと記憶している。

 まだ戦争の終わりを見ないで、『暁の寺』の第一部は終わる。紅旗征戎非吾事という藤原定家の心境が一番はまる気がするのは私だけなのだろうか。


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