夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑨ これだから自殺などはできないはずである
いまだにやらずにいる
また「書いている現在」が顔を出したところ。今回はやや具体性があるが、むしろ正体が掴めない。
演説家志望のようでもあり、小説家志望のようでもあり、演説経験者のようであり、まだ何も書いていないようでもある。それでいてそれなりの身分になっているのだからなんとも怪しい。どうもつじつまが合わない。残念ながら、ここは漱石が明確な「書いている現在」を決めかねているように見えるところだ。
艶子さんと澄江さんに見せたらば
この「艶子さんと澄江さん」は作中に六度ずつ出て來る名前である。ここでは二人ともハイカラ女であることが分かる。そしてこの物語の前に、二股という不始末があったことが予想できる。『三四郎』でも三四郎がよし子と美禰子の二股のようなことをやり、『それから』でも代助が嫂と三代子の二股のようなことをやり、『明暗』でも津田がお延と清子の二股のようなことをやったのが思い出され、『虞美人草』では小野が小夜子と藤尾の二股のようなことをやったのが思い出される。
ついでに『行人』三沢の調子のいいところが思い出される。そうすると、いや、三四郎はお光さんと名古屋の女と四又ではないかという気もして来る。
つまり三四郎にふさわしいあだ名は「芥川龍之介」である。
結婚前の男は
この「結婚前の男は」という言い方はいかにも既婚者の言い分である。しかしあまりにもさらりと書かれているので確証に欠ける。「女は自分を頼るほどの弱いものだから」という前提も、この書かれている現在の時点での経験値なのかどうなのか判然としない。つまり「艶子さんと澄江さん」に頼られたというだけなのか、それとももっといろんな体験や観察があるのか、そこは解らない。フィンランドパン、ハパンルイスヴォッカにライ麦が何パーセント使われているのかということも解らない。穀物原料中 ライ麦80%だ。
学理上あり得るものか
なかなか難しい表現である。そもそもこれは漱石の経験でもないわけなので、観念に空想を重ねて「ない」経験を創造しながら、通常「ない」錯覚を捏造している訳だから、それが逆にリアルだとか評してもしょうがない。ここは無性格論から一歩進めて、感覚が理屈に合わないという不確かさを発展させたとみるべきであろうか。
ついしらじらしくなりそうなところを、何とか器用に言葉をつないでいるのは、現在法(Prosopopaeia)の使い手たる漱石ならではといったところか。
下読みをする書物の内容は忘れても
これは主人公の未来か過去かと真面目腐ってもつまらない。真面目な学生なら誰でも試験前に徹夜くらいは経験があるかもしれない。(私はない。)
しかし予習をする学生はいても「下読み」をするのは教師くらいなものである。つまりここは何か分かりやすい例を示そうとして、つい教師たる漱石が出てしまったところであろう。
御愛嬌というところか。
神――神は大嫌いだ
神を信じている人と無神論者の間で「神」の定義が一致するわけもないが、ここに嫌神論者が現れた。ここは言いきりで補足説明がない。漱石の古い日記のようなものを読むとキリスト教的絶対神や、人神というものに否定的であることが分かる。ここはそうした漱石自身の思想が「そもそもそういう考え方が嫌い」という意味で現れたところであろうか。
どうも漱石は『倫敦塔』などのある意味オカルトチックな作品を書きながら、いずれ科学的に証明可能なものとそうでないものを分けて考えていたような節がある。「副意識」や「テレパシー」、「多元宇宙」などは真面目に考えていたようだが、そういうものとキリスト教的絶対神は別物であったらしい。
漱石は、
こんな寺田寅彦の批判に耐えうる程度には理智的である。それにしても寅彦、いってくれるじゃないの。
これだから自殺などはできないはずである
何か一つ二つ原因があるとすれば、もっともよく売れた『こころ』で先生が自殺を選び、代表作となる『吾輩は猫である』の結末が吾輩の死であることから、近代文学1.0の世界ではいかにももっともらしく「夏目漱石の自殺願望が無意識に現れている」といったような戯言が繰り返されてきた。
それは違うと何度も書いて来た。
漱石は人生は自殺するほど価値のあるものではないと考えており、『こころ』の先生の自殺は、漱石自身の自殺願望の表れではない。この『坑夫』という作品では藤村操の死が揶揄われていて、そこには明らかに毒がある。『坑夫』の主人公は人間に関して、その心の動きに関して深く、理智的に考えて、なお生きることを選ぶ「反・藤村操」的若者なのだ。それは勿論漱石自身の自己投影というわけでもなかろうが、いささか厳しい死者へのむち打ち、先生としての指導が含まれることをことを否めない。
[余談]
失われた妻を探して旅に出る男の物語なんか書いてたっけ?
これがマス・イメージ?
切りつけ事件?
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