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芥川龍之介の『彼 第三』をどう読むか⑥ 「僕 第二」の目覚め


 もしも『彼』において「僕」が一高に落ち六高に行った病人であり、独逸語が得意な「彼」にフランス語の『ジャン・クリストフ』の第一巻を貸したとしたのなら、そんな意地の悪いことをわざわざしたとするなら、

 なんとなく『彼 第二』で描かれる「彼」もその良いところを褒めるのではなく、むしろ駄目なところを強調するように描かれているような気がしてこないものだろうか。そして少しは後悔が見えてこないものだろうか。

 そう言えば『彼 第二』とは如何にも突き放した題名である。人を数字で表すことも、「第二」として「第一」ではないものとして取り扱うことも、そしてやはりそもそも名前のある誰かを「彼」とだけ呼んでみるのも如何にも人間味がない。

 それがもしも大切な友人なのだとしたら、なぜそういう書き方になったのかというところこそが気にかかる。それは単に「皮肉屋」という芥川の性質にのみ還元できることなのだろうか。

 そして私はこう考える。やはり『彼』という題名も、「彼」の扱いも、そして『彼 第二』という題名もふざけているのだ。そもそも大抵の男の他人は「彼」なのだ。亡友を『彼』や『彼 第二』に押し込めなくてはならない理由とは何なのか。

 例えば『彼』では、恐らく大抵の故人がばらして欲しくないことがこっそりばらされている。

 平塚逸郎は下宿先の叔父さんの娘、つまり従姉妹に横恋慕して彼女の部屋で何か物色していたみたいですよ、などと百年残る作家に書かれたらこれはさすがに恥ずかしい。日記丈盗み見ただけで済んだんですかね? パンツとか無事なんですかねえ? と皮肉を言われたらたまらない。

 そういう意味では『彼 第二』の方が辛辣かもしれない。
 殆ど芥川の友人としてしか多くの人の記憶に残っていないトーマス・ジョーンズ(1890~1923)が二十五歳の若造の分際で「I detest Bernard Shaw.」と生意気を言い、柳橋の「桃子」にプラチナの指輪を贈り、「ロオラン(ロマン・ロラン)などに何がわかる? 僕等は戦争の amidst にいるんだ。」と言い放つ恥ずかしさは、中年になってしみじみ思うものだろう。

 その「しみじみ」をまるでシジミ汁のシジミの貝をほじくって身を取り出して一つずつ食べるようないささか野暮なやり方で、芥川は敢えてしている。この時点で芥川はもう中年のおじさんなのだ。バーナード・ショーやロマン・ロランは世界文学全集に収まる作家だということが何となく解っていたことだろう。

「この間谷崎潤一郎の『悪魔』と云う小説を読んだがね、あれは恐らく世界中で一番汚いことを書いた小説だろう。」
(何箇月かたった後、僕は何かの話の次手ついでに『悪魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑いながら、無造作に僕にこう言うのだった。――「世界一ならば何なんでも好いい。」!)
「『虞美人草』は?」
「あれは僕の日本語じゃ駄目だ。……きょうは飯ぐらいはつき合えるかね?」

(芥川龍之介『彼 第二』)

 残酷にも「僕」は、谷崎の『悪魔』を「恐らく世界中で一番汚いことを書いた小説だろう」と言った彼の文学的センスを笑い、「彼」に「『虞美人草』は?」と訊いてみる。谷崎の『悪魔』よりも汚いことを書いた小説『虞美人草』を読んだのかと訊いたわけではない。『虞美人草』の皮肉が見えなければ谷崎の『悪魔』もまた表層的にしか読んでいないのではないかと、生意気な文学青年の読解力を問うているのだ。

 そんなことでは谷崎の『悪魔』を読んだことにはならない。ただ眺めただけだと。

「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット治下の露西亜ばかりだ。」
「それならば露西亜へ行けば好いのに。君などはどこへでも行かれるんだろう。」
 彼はもう一度黙ってしまった。

(芥川龍之介『彼 第二』)

 兎に角「僕」は「彼」をやり込めてしまう。「彼」は「日本もだんだん亜米利加化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西に住もうかと思うことがある。」と云いながら、ただダダを捏ねているだけだと「僕」は見抜いている。
 恋愛に交換可能な革命を指摘した「僕」は、『彼 第二』においては「僕はそんなに単純じゃない」と言い張る「彼」の凡庸さを『彼 第二』という題名に押し込めた。

 ただ『彼 第二』という作品が凡庸ではあり得ないことは、夢の中で眠りについた「僕」が目を醒まし、ぼんやりとしているのではなく興奮しているところに現れている。私はこれまで夢の中で眠ったことがない。「僕」は何故興奮しているのか。それは夢の中で眠り現実に目覚めるという夢のあり方に驚いたからに違いない。いや、むしろそんな現実の虚構性、嘘くささに驚いたのだろう。

 夢の中の夢が現実なのだとしたら、これほど頼りないものはない。いや確かに現実を現実たらしめる根拠などそもそも何一つ見つかっていないのだ。いつも夢から醒めたところにある明瞭な意識が現実だと思いこみ、自分のことを「僕」だと信じているだけで、或る日「僕」は夢から目覚めて「僕 第二」になっていないとも限らない。しかし「僕」と「僕 第二」違いは他人には解らないだろう。

 あるいは芥川には『彼 第三』という作品はないが、夢から覚めた「僕 第二」が『彼 第三』を書き、

 そうして書かれた『彼 第三』が全集から漏れているに過ぎないのであって、現実から醒めることもまた可能なのではなかろうか。

 『彼 第三』がなければ『彼 第二』を読めばいいのではない。『彼 第三』が何故ないのかを考えなければ、『彼 第二』を読んだことにはならないのだ。本来あり得ない『彼 第二』という題名を思いついたのは夢の中で眠った「僕」の代わりに「僕 第二」が現実に顕れたからなのではなかろうか。夢の中で眠った「僕」は漱石の命日に消えてしまったのだ。残されたのは「僕 第二」なのだ。

 違ったら御免。



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