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三島由紀夫の『金閣寺』を読む⑤ ギリシャをあこがれてはならない

第八章はこう始まる

 そののちさらに私は歩いて、…おもわず「そののちさら」という言葉を調べた。無論「其後更」である。何故開く?

 でまた殷賑がでてくる。

答えはなかった。 いらえはなかった。露伴、独歩、鴎外、鏡花だな。

菊のすがれている素朴な小庭  末枯れた  うらがれた とも。草木が盛りの季節を過ぎて枯れはじめる様子。

閉てきった たてきった

なぜ私が金閣を焼こうという考えより先に、老師を殺そうという考えに達しなかったのかと自ら問うた。(三島由紀夫『金閣寺』)

 私が三島由紀夫のロジック展開を観念の空中戦と呼ぶのは、それがただのジャンプなどではありえず、足がかりのないところ、完全な空中で二段三段とステップを踏み、さらに高く舞い上がり、屁理屈を切り結ぶからである。つまり屁理屈と屁理屈を被せ被せして戦わせ、さらにとんでもないところに止揚させてしまう。この三島のロジック展開に戸惑わない者はいないだろう。
 
 その一番解りやすい例が映画にもなった東大全共闘との公開討論会だ。東大全共闘の使う古い時代の流行り言葉もアジテーションも随分散らかっているが、一番難解なのは三島の屁理屈だ。
 三島は君らが革命と呼んでいるものを天皇に置き換えたらどうだと平気で言ってのける。いざとなったらみっともないことにならないようにと、鉄扇を忍ばせている様子はまるで解らない。完全に嘗めてかかっている。ダンディと言っても良い。解りやすいリフレーミングで揶揄う場面もあるが、兎に角屁理屈に屁理屈をぶつける。
 反対に、いや、実は全く同じ要素から、三島由紀夫のロジック展開の最も解り難いところがその天皇論である。石原慎太郎との対談では喧嘩腰で「三種の神器とはなんだ?」と問うた石原に対して三島は「宮中三殿だ」と即答して困らせている。
 宮中三殿なんてものは、そりゃ明治五年にできたあれだろ、京都にはなかったわけで…と流石の石原も混乱しただろう。そんな言い訳は他で見たことがない。
 前回溝口が金閣寺を焼かねばならぬという決心に至ったことを論理的ではないと書いたが、この「老師を殺そうという考え」も宮中三殿なみにひねくれている。この「老師を殺そうという考え」を否定するために、三島は『文藝文化』や日本浪漫派、そして三島文学を貫く根本的な屁理屈ではないところに到達してしまう。

 殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間が作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。(三島由紀夫『金閣寺』)

 まずこれが日本の古典、国学に通じた三島由紀夫自身のロジックそのものではないことを確認しておこう。三島自身は金閣を焼いたところで「美の総量の目方を確実に減らすことになる」とは考えていなかったと思われる。
 その根拠は伊勢神宮が二十年ごとに建て替えられることを以て、日本には本物とレプリカの違いという考えそのものがないと指摘しており、今上天皇は天照大神と直結することでいつでも今上天皇なのだ、とも書いているからである。
 三島由紀夫が『金閣寺』を書いたのは金閣寺が再建された翌年のことである。三島は、立派なレプリカができて、むしろ美の総量が増えたことを確実に知っていたのである。

 次にロジックを見ていこう。「殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。」これを「人間はどうせ死ぬんだからわざわざ殺すこともない」という程度に受け止めるなら、まだただのジャンプである。しかし三島は飛翔する。「一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。」いや、残念ながらそうではない。生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ。「一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび」と「殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。」を結びつけて考えたとき、「人間はどうせ死ぬんだからわざわざ殺すこともない」という妥協案は消し飛ぶ。この「却って」でひっくり返そうとしたテーゼはやはり無理をしている。つまりさして器用でもなければ特別でもない。器用で特別な着想はどこか面白いものだ。松本人志は幽霊を否定するために鯖で思考実験した。鯖に幽霊がおったらしんどいで、と。理屈を言えば、適者生存とか自然淘汰では九十九パーセントの生物種が絶滅するという生命現象は説明できない。生命は過剰に滅びるのだ。生きているということそのものが幻のような現象なのだ。永生の幻は単なる幻である。溝口はこうした観念の空中戦によってどんどん凡庸に没していく。

嫉視 しっし

塔頭 たっちゅう

石橋 しゃっきょう  能だな。

泡沫 うたかた

たまさかの失火   たまさか 田山花袋、泉鏡花が使っている。

荒地野菊


庫裏 くり 仏教寺院における伽藍のひとつ。

緞帳 どんちょう

激湍 げきたん 勢いのはげしい早瀬

「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永遠に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だが、この生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと言おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それしかない」
(三島由紀夫『金閣寺』)

 と、平岡公威は書いている。柏木は最初真面というか普通のことを言っていたのに、突然「ないね。あとは狂気か死だよ」と馬鹿なことを言う。死んだら生に耐えなくてもよくなる。まったくもう、夏目漱石の『行人』から明治のインテリの三本柱を取り出す江藤淳→柄谷行人みたいな話になってしまっている。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それしかない」この意見は凡庸だがむしろ正しい。溝口は行為が世界を変貌させるとまた凡庸の極みのようなことを自信満々に言ってしまう。

 そこに三度目の「南泉斬猫」が出てくる。南泉和尚は行為者だから猫を斬って捨てたのだと柏木は言う。美とは『生に耐えるための別の方法』の幻影だとも。溝口は美的なものは怨敵だと言い出す。最後に二人はどんな認識や行為にも出帆の喜びは代えがたいという空想で意見が知一致する。出帆の喜びって、そりゃないだろう。これは裏日本で育った人間の感覚ではありえない。ここは少し散らかっている。そもそも柏木は泳げないのではなかろうか。なぜ出帆の喜びを持ち出したのか、今の時点で私には解らない。

 ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。(太宰治『一日の労苦』)

 はっきりと太宰が念押ししているのに、三島由紀夫はギリシャにあこがれ、『アポロの杯』を書き『潮騒』を書いた。違うんだよ、と私は言いたい。同じ放浪の俳狂のようで山頭火と尾崎放哉では違うのだ。裏日本の出帆はエーゲ海の出帆とは違うのだ。

 むしろ三島は「若し趙州あらば」というところに論を進めるべきだったのではなかろうか。「南泉斬猫」の公案のよくできているところは、南泉和尚が「若し貴公あらばこの猫は助かったはずだが」と嘆くところにある。つまり趙州は和尚の問いの答えを持っていたことになる。つまり正解があったという理屈になる。あるいは正解はそもそもなかったという理屈にもなる。頭に履を載せることには普通意味はない。趙州は正解を示したか、あるいは正解がないことを示したかのいずれかである。この趙州の存在なしで、和尚は猫を斬ったとさ、では公案にはならない。つまり趙州という理解者がなくては、和尚の行為も成立しない。三島は屁理屈に屁理屈を重ね、頭に履を載せるようにして溝口を理解してきた。なのに「どんな認識や行為にも出帆の喜びは代えがたい」と訳の分からないことをさらに足して見せる。

 これが第八章の結び。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それしかない」という解りやすい正論をけしてそのままにしておかない。解りやすさを決して許さない。そこが三島由紀夫の途轍もないところである。


【余談】

「南泉斬猫」の公案の解釈にはさまざまなものがある。中でも趙州がいたら和尚から刀を採り上げて和尚を切っていた、という解釈は面白い。猫は死なない。和尚は死ぬ。趙州斬南泉である。単に猫は死なないで無事でよかったという話にしないところが面白い。三島由紀夫は刀は抜かれれば人を切るしかないと考えていた。(『若きサムラヒのために』) 和尚も刀を抜いたなら覚悟が必要だろう。
 作中の「老師を殺そうという考え」の出所として、老師の態度そのものを公案に見立ててみるのもありかもしれない。溝口はずっと老師の心を読みかねていた。ずっと圧迫されていた。ならばその公案の答えは、和尚を切ることでもあり得るのではないか。人を殺す事は絶対悪ではない。猫を斬ってよくて人を斬ってはいけない理屈はない。「南泉斬猫」では美である猫が斬られた。溝口は「老師を殺そうという考え」を捨て、金閣を焼く決心をする。「若し趙州あらば」といった書かれていない問いが「南泉斬猫」の公案の解釈から浮び上がるのは故なきことではないのだ。





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