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筋について

 この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだが、我々の神経は痲痺しているせいだか何だかあなたの口にするような非難はとうてい持ち出す余地がない、芝居になれたものの眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だって、妙だって、まるで忘れて見ていますと云いました。なるほどそれが僕の素人であるところかも知れないと答えたようなものの、私は二宮君にこんな事を反問しました。僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構わないと云う気にはとてもなれない。したがって僕がいかほど芝居通になったところで、全然君と同じ観察点に立って、芝居を見得るかどうだか疑問であるが、その辺はどうだろう。――話は要領を得ずにすんでしまったが、私にはやッぱり構造、譬えば波瀾、衝突から起る因果とか、この因果と、あの因果の関係とか云うものが第一番に眼につくんです。ところがそれがあんまり善くできていないじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄するために作ったと思われますね。太功記などは全くそうだ。あるものは平板のべつ、のっぺらぽうでしょう。楠なんとかいうのは、誰が見たってのっぺらぽうに違ない。あるものに至っては、私の人情を傷つけようと思って故意に残酷に拵えさしたと思われるくらいです。きられ与三郎の――そう、もっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。(夏目漱石『虚子君へ』)

 例えば私が「藤尾は毒薬を飲んで自殺なんかしていない」と書くのはやはり筋というものがあってこその小説だと思うからです。『虞美人草』を「藤尾が毒薬を飲んで自殺する話」にしてはいけないと思うからです。

 森田草平はそこを曖昧にして『虞美人草』を読んだつもりになっていますが、私はそれではいけないと思うのです。また先日、太宰の命日に『人間失格』は大いに笑って読むべし、と書きましたが、

 これは因果の関係ですね、つまり太宰が夏目漱石を持ち出すのは、どんな因果なのか、自分を美男子でモテモテに描くのはどんな趣向かと云うパーツの意味ですね、これをはっきりしなくてはならないということを云いたかったわけです。これをいわゆるあてかんの逆張りの意味に取られると困ります。逆張りしているのは太宰の方です。

 で今日は『彼岸過迄』の筋について考えてみたいんですが、あれはいくつものばらばらのような話を全部主人公・田川敬太郎の物語として読まなくてはならないのですが、そう読んでいる人はいませんね。まあ、みつかりません。いくつものばらばらの話だと読んでいます。なるほど須永の話の中に田川敬太郎は参加できていません。それを云えば森本の冒険譚にも田川敬太郎は参加できていません。

 顧りみると、彼が学校を出て、始めて実際の世の中に接触して見たいと志ざしてから今日までの経歴は、単に人の話をそこここと聞き廻って歩いただけである。耳から知識なり感情なりを伝えられなかった場合は、小川町の停留所で洋杖を大事そうに突いて、電車から下りる霜降の外套を着た男が若い女といっしょに洋食屋に這入る後あとを跟けたくらいのものである。それも今になって記憶の台に載せて眺めると、ほとんど冒険とも探検とも名づけようのない児戯であった。彼はそれがために位地にありつく事はできた。けれども人間の経験としては滑稽の意味以外に通用しない、ただ自分にだけ真面目な、行動に過ぎなかった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 人の話を聞く事、それにどんな意味があるのか、ということと、田川敬太郎の視点から須永の話を眺めることにどんな意味があるのかということは、これまで殆ど論じられてこなかったのではないかと思います。そもそも夏目漱石自身が「敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終った」と規定しているのにも関わらず「物語を聞くという冒険」つまり人の話を聞くことの意味ということを考えない人が殆どだったんじゃないでしょうか。これは物語の構造が解っていないということで、例えば村上春樹さんの『一人称単数』で考えてみますと、

クリーム
浪人生時代に「僕」は、以前一緒にピアノを習っていた女の子からの、ピアノ演奏会の招待状を受け取る。親しくもない彼女が何故自分を招いたのかわからなかったが、「僕」は当日、記された住所の元へ赴く。だが目的の建物の門は固く閉ざされていた。途方に暮れた「僕」がそばにあった公園で休んでいると、突然老人が現れ、「中心がいくつもある円や」と「僕」に言う。そしてそういう円を想像できるようにしなければならない、努力してそれを成し遂げたとき、それが人生のクリームになるのだ、と話した。
気が付いたとき老人の姿は消えていた。あの日に起った出来事は何であったのか、今でも「僕」はわからないが、折に触れて今でも、中心がいくつもある円と人生のクリームについて考え続けている。(ウイキペディア「一人称単数」より)

 このまとめを書いた人は『クリーム』という小説の構造が解っていませんが、何が駄目なのか分かる人がいますか?

 この『クリーム』という小説を読んだ時、あれっと思ったのですが、これは「僕」が直接読者に語り掛けている話ではないんですね。……と云う話を誰かに話している話です。『騎士団長殺し』は肖像画家が自伝的枠小説を書いている話です。語り手の立ち位置が違います。物語の構造が違うんです。だから「須永の話」が切り取られて出版されると夏目漱石は怒るわけです。それは『行人』の「塵労」だけ切り取るようなものです。しかし、一郎を主人公と見做したい江藤淳や柄谷行人なんかは「塵労」しか見ませんね。見ないので筋、構造が解っていません。『こころ』でもそうですね。先生の遺書ばかりにフォーカスするので吉本隆明は先生が主人公だと信じたまま死にました。これは取り返しがつかないことです。先生の遺書を読んでいる時の「私」の心の動きが読めなくては、「人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人」という理由が掴めないでしょう。

 ですから田川敬太郎の視点から須永の話を眺めることが必要になってきます。そう考えた上で実は『彼岸過迄』は賺していて、『行人』は暈しすぎ、『こころ』においてギリギリ何とか形になったと私は見ています。その『こころ』でさえ、「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされていることや、乃木大将の奥さんの静子が遺書の上では生き残る筈なのに殺されたことなど、因果というものが理解できていない人が殆どです。今のところ大体四百人くらいが気が付いたでしょうか。

 いや、自分は筋なんてどうでもいい。場面場面を楽しめればいいんだという人には夏目漱石作品は向いていないんじゃないかと思います。今日、梶井基次郎の作品をいくつか読みましたが、梶井基次郎の作品は筋よりも「感覚」ですね、猫の耳を切符切りでパチンとやってみたいとか、崖の上から病院の窓を見下ろしていたら誰かが死んだとか、溺死体の爪がみんな剥がれているとか、そういう「感覚」を楽しめばよいと思います。場面場面を楽しむ小説としっかり筋を追うべき小説があり、設計士の立原道造の詩は筋を追わなくてもいいのですが、建築家志望だった夏目漱石作品は筋が大切という話でした。 






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