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誰を地獄に落とそうと私は書き続ける

 夏目漱石論者で乃木静子について言及していない人にはそもそも資格がない、引退してもらいたいと私は書きました。

 傑作『こころ』の先生が静を生かす遺書を書き、実際に静が生き残ったのに対して、乃木希典がやはり妻・静子を残す遺書を書いたにも拘わらず、結果的に静子迄殺されてしまったことで、森鴎外は半信半疑に始まり、徹底的に殉死のルールを再確認する小説を書きました。女房を道連れにする殉死なんてものはありません。この森鴎外に対する解釈は近代文学1.0の通説の真逆になります。

 しかしそもそも私のやり方はいかにも意地の悪いものです。いくら調べて見ても乃木静子について言及している漱石論者など皆無なのです。歴史研究家には一人居ますが、はっきり「これはおかしい」と書いているのはおそらく私一人でしょう。今更乃木静子の死がおかしいなどと騒ぎ立てるのは頭の悪い陰謀論者のようで、格好悪くて、駄目なのですね。それと漱石のミスディレクションがあまりに見事で、乃木静子に意識がいかないように工夫されています。だから私の言い分は受け取り方によれば、言葉の暴力です。既に死んでしまった人たちに対しては屍に鞭打つ行為です。

 それでも私は書かざるを得ませんでした。

 国語教科書、「現代文B」の範囲で切り取られた『こころ』は「愛と友情の物語」として規定され、「財産と擬制家族」といった視点が抜け落ちています。

 前半にある「金さ、君」というふりを無視して、狭い解釈がされています。『こころ』はそんな話じゃないんだよ、ということは死ぬまで書き続けるつもりです。

 繰り返しますが、それがどんなに残酷なことなのか、よく解っています。私の書いたものを読めば、人によっては赤面の後、くさくさして死にたくなるかもしれません。それでも、どんなに苦しくても、解説や解読をして他人に汚染データを渡してしまった人は最後まで読んで貰いたいと思います。

 ともかく『こころ』に関してはあまりにも多くの誤解があり、あまりにも多くの汚染データがあり、切り取られた『こころ』がいまだに国語教科書に採用されていることから、逃げられないと思いスパッとやりました。

  それから今回は『三四郎』を途中までやりました。これまでこの小説の摩訶不思議さを的確に指摘しているのは小谷野敦さんくらいではないでしょうか。ただ不思議と言うだけなら誰にでも言えますが、

要するに、『三四郎』は、さまざまな解釈の変数を含んでいて、あちらを動かせばこちらがずれる、という厄介な構造を持っているのだ。読者が三四郎に同情しようと思えば美禰子を見失い、三四郎を笑おうとすれば、美禰子を「落ち付いて居て、乱暴だ」(六)とか、「全く西洋流だ」(七)とかいった男たちの言葉の行き交う世界に吸収されてしまい、やはり美禰子を見失う。
(『夏目漱石を江戸から読む』小谷野敦、中央公論、1995年)

 こうした見立てはなかなかできません。実際に108個の謎を論ってみてしみじみ正確なものだと感じます。まさに「あちらを動かせばこちらがずれる」からです。

 おそらく『三四郎』は教科書には採用されていないでしょうから、これで自殺する人は出ないと思いますが、それでも「自尊心を傷つけられた」「厭味に感じる」と不快な思いをされた方もいらっしゃると思います。誠に申し訳ありません。しかし私は「何故デビル? サタンじゃないの?」「森の女じゃなくて池の女だよね」「鼻緒の色って左右で変える?」と一々細かいところが気になる性格で、……というわけではなく、私はただ漱石が「仕掛けた」という合図を丁寧に拾っただけで、悪いのは漱石、ではなく、この程度の仕掛けも読めない読者です。私は何も悪くありません。

 いや、悪い人はいます。柄谷行人を筆頭にした駄目な漱石論者です。そもそも、

 このまとめを読んで貰うと『三四郎』の「あらすじ」が何パターンも浮かび上がってきます。三四郎の失恋なのか、美禰子の二股なのか、野々宮の大ぼけなのか、それこそ小谷野敦さんの言う通り、厄介な構造を持っていて、平べったい「あらすじ」、つまり一本の経糸に収斂させることが難しいということが解ると思います。

 それがこれまでは「青春小説の金字塔」と適当な誉め言葉で「解説」されていたわけです。じゃ、「知らん人」って何だか解ってました? と問いたくなる気持ち、解って貰えます?

 これまでの近代文学1.0は文豪飯と顔出しパネルだと書いていますが、そこにもっていったのは知ったかぶりをして、難しそうな言葉を組み合わせて、適当なことを云っていた評論家の責任が三割、それを持ち上げる出版社の責任が三割、それを喜ぶ格好つけの読者の責任が三割、残りの一割が、そうした評論家の靴を嘗める実作者の責任でしょうか。そんな人いるのかな?

 あ、ここ説明が抜けてましたね。

 作品から時代を切り取り時代を論じるのが良いならば、作品からグルメを切り取りグルメを論じても可となりますよね。作品から性欲を切り取り性欲を論じるのが良いならば、作品から美人を切り取りランキングづけしても可となりますよね。そんなものは余談で、あくまでも本論があるべきなのです。

 兎に角、「説明がない」などと書いちゃだめですよ。

 先生に話者が近づくのは懐かしみからであって「なんとなく」ではありません。絶対にそうかと言えば、絶対にそうです。

私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられた」と書かれている「私だけには」の意味がまるで分かっていない。「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい」だから「私だけには」なのだ。「あなた限りに」と「私だけには」がつながらなければ、それは殆ど『こゝろ』を讀んだということにはならない。

 これは本当に基本的な国語力と言うべきもので、ここのつながりが解らないという人が東工大で教えていたというのが、私にはちょっと信じられないですね。東工大といえば理系の雄ですよね。整数論とかやるわけですよね、群とか環とか、素数が好きなんですよね。ゼータ関数とかやるんでしょ。それなのに何故指摘しないかな。私が生徒なら、この先生を泣かしますね。こんな先生にはどうか辞めていただきたい。生徒が可哀相です。こんな人に評価されて、成績をつけられて、それが将来に影響するわけですよね。

 しかし問題は深刻で、先生の先生がそもそも駄目なわけです。

 酷い話です。何ですか「必要悪」って。

 ですから、私は誰を地獄に落とそうと、できるだけ丁寧に読み、できるだけ分かりやすく書いて行こうと思っています。まだまだわからないところのある『三四郎』について書いたのは、解る事と解らないことと、解りそうなことがあることが解ったからです。

 一日三本記事を上げる日々が続いた中で、確信できたことがあります。どうも私が書いていることはデタラメではありません。手応えがありました。私には誰かを地獄に落としても書く資格があると思います。

 次は『行人』をやるかどうか迷っています。いや、迷っている時間がもったいないので、明日からやります。


[余談]

 読書メーター経由、noteなんて人もいるんでしょうか?

 まあいないか。

 何故か、読書メーターの方がちゃんとした人が多いような気がします。

 何故だろう?

 ところで

 これ使ってみました?

 一文字からテキスト検索できるんです。

 無茶無茶凄い。










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