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芥川に四季はあるのか? 芥川龍之介の俳句をどう読むか⑲

炎天にあがりて消えぬ箕のほこり

 佐藤惣之助は「新しい凡兆だ」などと書いているが、どうだろう。

 私にはここまで見て来た芥川龍之介の俳句がどれも炎天の梅花に思えてならないのだ。

 そもそも、

 夏の句、

 冬の句、

 春の句、

 でまた冬の句と、目まぐるしく季節が変わる並びに違和感はないだろうか。
 前掲の久米の小説においてもそうだったが、まるで季節感と言うものがない。五月半ば過ぎの北海道で「冴え返る」と詠んで見たりする。『秋』と言う小説の掲載時に、異なる季節の句をあえて添えたりもする。

 これは一体何なのだろうか。

 そもそも芥川はないことないことを書いていないだろうか。

炎天にあがりて消えぬ箕のほこり

 というが舞い上がって消えぬほこりなど存在しない。もしほこりが落ちて来なければ掃除の必要がなくなる。舞い上がれば落ちてくるものなのだ。せめて、

炎天に舞いまどいおるほこりかな

 であろう。舞い留まってはいけない。なかなか消えないなと言うことを消えぬと言ってはいけないのだ。それは誇張だ。

炎天に踊り続けるほこりかな

 までは許されよう。それでも消えないわけではないのだ。消えないほこりりは炎天の梅花だ。

おらが春

※「蛼」  ……「あしまつい」、こおろぎ。

歲時記には「竈馬」にこほろぎ、いとゞの兩訓を施してあるが、いとゞは色淡く鳴かないし、こほろきは黑く、秋になると鳴く。


評釈おらが春 勝峯晋風 著十字屋書店 1941年

 そもそも炎天に箕で何をしているのだろうか?

 箕は秋に使う道具である。


加納小郭家歌集 古今書院 1941年

 うん。夏にも使うか。



【余談】

 文学として社会的文学的の見とおしが与えられている。教養の方向として「鴎外、芥川的教養は、むしろ彼等にとっては知らねばならぬことの回避を意味し、現代的教養の放棄を意味する。」現代社会は頽廃しているというが、その頽廃の根源を看破することによって、作家は頽廃の性格から救われ、頽廃を克服することが可能である。青野氏は、かかる性質の教養こそ、知的探求こそ、現代の作家が必要としていることを主張することで、一層ヒューマニズムと作家との関係の具体性を示しているのである。
 ところが更にもう一歩すすんで、きわめて素朴な質問がここになされる。では、そのような教養はどこで得られるであろうか、と。どういう人間的鍛錬と文学的な勉強がされるのであろうか、と。答えは出されている。「悪時代及び社会との闘争の中において生かされるのであり」「現代ヒューマニズムの文学の社会性はまた社会に対する闘争的性格に加えて、社会の客観的理解によって特性づけられなければならない。というのはその現実的局面が、当然それを要求するからである」と。

(宮本百合子『十月の文芸時評』)

 だからその芥川的教養というのが解らないのですよ。

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