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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか25 さっぱりしてから読もう

そういえば辞書にない

 摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄金を胸のあたりに燦かせて、足さえ見るも寒そうな素跣足でございました。その後にはいつもの女菩薩の幢が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられて居りましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜って、わが日の本に摩利の教を布こうずる摩利信乃法師と申すものじゃ。」

(芥川龍之介『邪宗門』)

 当たり前すぎて当たり前だからなのか、この「布(し)こうずる」の「ずる」は辞書に説明がない。意味としては「という」という程度のことだが、

と-いう ―イフ 【と言う】 (連語) 〔格助詞「と」に動詞「言う」の連体形の付いたもの〕 (1)二つの体言または体言に相当する語句の間に用いる。(ア)「そう呼ばれている」「…という名の」の意を表す。「日本―国」「田中―人」「秩父の荒川村―所」(イ)(数量を表す語の下に付いて)それだけの数に達する。「何百―粒子」(ウ)とりたてて言う意を表す。「いざ―時」「君―命の恩人」 (2)同一の体言または体言に相当する語句の間に用いる。(ア)それに属するもの全部の意を表す。「人―人は,みな,…」(イ)強調の意を表す。「今度―今度は…」

大辞林

 調べてみても「~ずる」の説明が見当たらない。なんでや?

ず (助動)(○・○・ず・ず・○・○)
〔推量の助動詞「むず(んず)」の撥音無表記。また,その中世以降の形「うず」からの転とも〕
推量または意志の意を表す。だろう。う(よう)。「其殺さるる時は美しい物を著るよりは只藁草の中に居〈ず〉物をと思ふぞ/蒙求抄 1」

大辞林

 そしてふと気が付く。中御門の姫様の話はどうなったのかと?

 つまりここで摩利信乃法師は「天上皇帝の神勅を賜って、わが日の本に摩利の教を布こうずる」という大義、建前を述べているが、その実中身である菅原雅平の本音の部分では、中御門の姫様という個人的なターゲットがあり、そのことで堀川の若殿様との三角関係が生じてこそ物語が進行するのではないかと。

 そしてまた気が付く。そういう意味では『地獄変』は息子の文学ではなく、ファーターの文学でも無かったなと。

 摩利信乃法師は独身だろう。話者も甥も独身のように思える。そういう意味では『邪宗門』は息子の文学で、独身者の文学なのかと。

 そしてまた気が付く。わざわざ裸足とは、中島美嘉かアベベか、と。何で裸足なん? と。『さまよえる猶太人』の前振りだろうか。

稲妻に道きく女はだしかな      鏡花

 あるいは「肩へ長い髪を乱しながら」だと解り難いが、「渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛」ということは名古屋巻きなのかと。

 これはこの時代ではトランスなのではないかと。

 あるいは十文字の護符はカソリックではなく、プロテスタントのものではないかと。そして「誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう」とあることから、幟を預けられる弟子が出来たのかと。

呪文無しでも効果があるのか

 あの沙門は悠々と看督長の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳かな声で申しました。それを聞くと御門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検非違使たちばかりは、思いもかけない椿事に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長と見えるものが二三人、手に手を得物提げて、声高に狼藉を咎めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但し、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転び倒れてしまいました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

か‐ちょう【火長】クワチヤウ ①律令制の軍団の単位である火1の長。万葉集20「右の一首は―物部真島のなり」 ②検非違使けびいし配下の職。府生ふしょうの下。源平盛衰記41「―前を追ふべしや否や」

広辞苑

 これまで摩利信乃法師の能力は様々なパターンが描かれてきた。最初の鍛冶相手では「やられたと思いきややった相手が倒れて泡を吹く」というものだった。それが「狙っただけで殺される」ようになり、話者と甥の場合には十文字の護符を振り回して呪文を唱えると幻覚が見えてやられる、というところに落ち着いたかと見えた。それが今度は呪文無しでも幻覚を見せられるようだ。

 本来必殺技というのはワンパターンでなくてはならない。使い方や効果がまちまちではいけない。無限の力を与えてはいけないが、効果は絶大でなくてはならない。その辺りのコツと云うものは、当然芥川も理解してい筈なのだが、

 前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗したり、その信者を呵責したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥い血潮に変ったものもございますし、持ち田だの稲を一夜の中に蝗が食ってしまったものもございますが、あの白朱社の巫女などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 病気になるわ目がつぶれるわと、ここで摩利信乃法師の法力は一旦万能になってしまっている。こうなると、十文字の護符が光って人が倒れるだけだとやけにあっさりしているなと感じてしまう。

 パターンが一定しないならしないで、次第に大袈裟になるならまだ解る。しかし白癩にされたり目がつぶされたりしていたのだから、ここは木っ端みじんに体が肉片となって飛び散るくらいしてもいい筈だ。(え? 白癩にされたり目がつぶされたりって、そのまま「最下層というアイデア」じゃないか。つまりハンデキャップだ。わざわざそういうものを与えているということは、芥川も「弱法師」を意識しているのか?)

 だがこうして話者が見たところでは、起こっていることは精々幻覚でしかない。相手を惑わかしているのであって、物理的に何かか作用したとは認めがたい状況がある。

 これでは少ししんどい。こうなると摩利信乃法師の長い髪は地毛ではなく鬘で、『羅生門』の老婆が死体から抜いた毛で作ったものであり、菅原雅平だとばれないのは菅原雅平が禿げだったからではないかという気がして来る。髪の毛のあるなしで人の印象というのはかなり変わるものだ。


創造神だったのか


「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今目のあたりに見られた如くじゃ。」
 摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地を造らせ給うた、唯一不二の大御神じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔の類いを事々しく、供養せらるるげに思われた。」
 この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄かにどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲らそうと致すものはございません。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 なるほどここで天上皇帝の正体が唯一無二の創造神だと解った。

 これは日本にはそもそもなかった考え方だ。いや「すめらみこと」を創造神だと書いている人がいなかったわけではない。

 しかしそれは極めてまれな、独創的アイデアではなかろうか。無論「天上皇帝」を唯一不二の大御神として、阿弥陀如来を妖魔扱いする芥川のアイデアこそが極めてまれで、独創的なのだが、こうした宗教対立が起きうるということ自体は、論理的に起こりうることであり、信じがたいことではない。

 間もなくこうした破壊行為が日本全土に広がるだろう。

 芥川は切支丹ものを通じて信仰の尊さそのものは殆ど語ってはいない。切支丹迫害、廃仏毀釈の歴史を眺めても、宗教というものはそもそも対立するもので、そこには常に殺伐としたものがある。その殺伐の象徴が例えば十字架なのだ。『邪宗門』でやたらと強調された十文字の護符が十字架なのだとしたら、ここで摩利信乃法師が持ち掛けた十字軍的喧嘩こそ、摩利の教を布こうずるにふさわしいやり方と言えるかもしれない。

 それにしてもここで若殿様の変節だとか、案外あっさり落ちた中御門の姫様の本音とか、さまざまなものが打ち捨てられたまま散らかってきた感じがありありとする。

 平太夫の反撃もまだない。

 そしてここでいきなりテーマのように出てきた宗教対立も唐突感があり過ぎる。

 これではいかに天才芥川とは言え、なかなかまとめるのは難しいのではなかろうか。それとも何とかしてまとめてしまうのか。その答えはまだ誰も知らない。何故ならまだこの続きを読んでいないからだ。




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