嬌嗔とは美人のなまめかしい怒りである。お君さんの親切はスマートだ。しかしこういう縄張り争いのようなものは男女を問わず、どこの世界にでもあることなのだろう。しかしこうしたいかにもさりげない親切というプロットを拾い出し、展開を作り出すところ、その親切のさりげなさが尋常ではない。落ちたものを拾うとか、そういうことでは駄目なのだ。ただ「足を止めた」というところが見事だ。
出た。
省略法。
お松さんに「あなた持っていらっしゃいよ。」と云われてお君さんがどうしたか、芥川は書かない。省略してしまう。これが実際やってみるとなかなかできない。まあ、できない。できても、すっきりした感じにならない。
しかしここで省略法に気が付いた人もそう多くはなかろう。この言われてみればという感じが凄い。そしてもう流石にこれは皆気が付いているだろう。折角並べ立てた渾名がまだ使われていない。
さらにナレーターはナビゲイターとなり、カメラを女髪結の二階に移動させる。
金さえ払えば誰でも出入りできるカフェからお君さんの部屋に移動したカメラは、お君さんの趣味を暴き出す。さて、そこで作者が通っていたカフェの女給のちょっと面白い話、身辺雑記を私小説風に仕立てるのかと勘違いしていた読者は驚くべきなのだ。
例えば『羅生門』で楼の二階に上る下人をわざわざ「一人の男」と呼びながら遠景に捉え、その面皰に寄ってクローズアップにするカメラワークは、谷崎潤一郎が映画に興味を抱きはじめるはるか前のものである。
ここで芥川はデイヴッド・ロッヂが言うところの「リスト」というレトリックを使う。寸評をぎりぎりまで控え、そこに並べられた事物からお君さんの趣味、人物を浮き上がらせようとするのだ。「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、と並べてみるといかにも通俗である。そして「残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない」と書いてみる。頭とお尻ばかりか、ここにも作者が顔を出す。
本来作者は身体性を放棄すべきところ、芥川は『葱』では放棄しない。
茶箪笥の上の壁の雑誌の口絵はいかにも通俗趣味、いやバラバラ趣味というべきか。金持ちの所有する美術品の様に節操がない。
※細かいところでは大正ロマンの竹久夢二と江戸浪漫の鏑木清方のひねりがある。
この皮肉はいかにも芥川らしい意地の悪さだ。お君さんの趣味生活は、一日で夏目漱石、芥川龍之介、そして谷崎潤一郎を読むくらい節操がない。それじゃ、何も解らんだろう、と言いたくなる。いや、解る解らないではなく、お君さんはそうしたいのだろうと思う。造花の百合でも眺めたいわけだ。それで芸術的感激に耽るに耽ることができればまことに結構なことだとは思う。思うけれどもこの芸術的感激はあからさまに芥川龍之介から笑われている。この芥川のスタイルは本当に太宰節のそっくりだ。
武夫と波子は徳富蘆花の『不如帰』の登場人物である。作中の人物に慰問の手紙を書く別の作中人物。両方虚構なので案外通じるのかもしれない。いや、芥川はやはりここで虚構と現実の区別のできないお君さんを笑っているのだ。あるいは読者に笑わせようとしているのだ。
そして次の一文がすこぶる面白いのだけど、肩が疲れたので少し休憩する。ずっと腕を持ち上げているのだ。そりゃ疲れる。