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芥川龍之介の『葱』をどう読むか② 虚構と現実の区別はできない

 ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子にいた外国語学校の生徒らしいのが、巻煙草を一本啣えながら、燐寸の火をその先へ移そうとした。所が生憎その隣の卓子では、煽風機が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬へ微笑を浮べながら、「難有う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔を発したらしい声を出した。――

(芥川龍之介『葱』)

 嬌嗔とは美人のなまめかしい怒りである。お君さんの親切はスマートだ。しかしこういう縄張り争いのようなものは男女を問わず、どこの世界にでもあることなのだろう。しかしこうしたいかにもさりげない親切というプロットを拾い出し、展開を作り出すところ、その親切のさりげなさが尋常ではない。落ちたものを拾うとか、そういうことでは駄目なのだ。ただ「足を止めた」というところが見事だ。

 こんな葛藤が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌を売っている。あるいは業腹らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
 が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬をするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪花節を聴いたり、蜜豆を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑かなカッフェを去って、近所の露路の奥にある、ある女髪結の二階を覗いて見るが好い。何故と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥しているからである。

(芥川龍之介『葱』)

 出た。
 省略法。
 お松さんに「あなた持っていらっしゃいよ。」と云われてお君さんがどうしたか、芥川は書かない。省略してしまう。これが実際やってみるとなかなかできない。まあ、できない。できても、すっきりした感じにならない。
 しかしここで省略法に気が付いた人もそう多くはなかろう。この言われてみればという感じが凄い。そしてもう流石にこれは皆気が付いているだろう。折角並べ立てた渾名がまだ使われていない。
 さらにナレーターはナビゲイターとなり、カメラを女髪結の二階に移動させる。

 二階は天井の低い六畳で、西日にしびのさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗の布をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋綴じの書物が並んでいる。「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥の上には、頸の細い硝子の花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百合が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子に飾られていたのに相違あるまい。最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方君の元禄女で、その下に小さくなっているのは、ラファエルのマドンナか何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海君の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェンへ滴るごとき秋波はを送っている。但しこのベエトオフェンは、ただお君さんがベエトオフェンだと思っているだけで、実は亜米利加アメリカの大統領ウッドロオ・ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至りに堪えない。――

(芥川龍之介『葱』)

 金さえ払えば誰でも出入りできるカフェからお君さんの部屋に移動したカメラは、お君さんの趣味を暴き出す。さて、そこで作者が通っていたカフェの女給のちょっと面白い話、身辺雑記を私小説風に仕立てるのかと勘違いしていた読者は驚くべきなのだ。

 例えば『羅生門』で楼の二階に上る下人をわざわざ「一人の男」と呼びながら遠景に捉え、その面皰に寄ってクローズアップにするカメラワークは、谷崎潤一郎が映画に興味を抱きはじめるはるか前のものである。

 ここで芥川はデイヴッド・ロッヂが言うところの「リスト」というレトリックを使う。寸評をぎりぎりまで控え、そこに並べられた事物からお君さんの趣味、人物を浮き上がらせようとするのだ。「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、と並べてみるといかにも通俗である。そして「残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない」と書いてみる。頭とお尻ばかりか、ここにも作者が顔を出す。
 本来作者は身体性を放棄すべきところ、芥川は『葱』では放棄しない。

 茶箪笥の上の壁の雑誌の口絵はいかにも通俗趣味、いやバラバラ趣味というべきか。金持ちの所有する美術品の様に節操がない。
※細かいところでは大正ロマンの竹久夢二と江戸浪漫の鏑木清方のひねりがある。

 ―― こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術的色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソンの肖像の下に、「不如帰」を読んだり、造花の百合を眺めたりしながら、新派悲劇の活動写真の月夜の場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽るのである。

(芥川龍之介『葱』)

 この皮肉はいかにも芥川らしい意地の悪さだ。お君さんの趣味生活は、一日で夏目漱石、芥川龍之介、そして谷崎潤一郎を読むくらい節操がない。それじゃ、何も解らんだろう、と言いたくなる。いや、解る解らないではなく、お君さんはそうしたいのだろうと思う。造花の百合でも眺めたいわけだ。それで芸術的感激に耽るに耽ることができればまことに結構なことだとは思う。思うけれどもこの芸術的感激はあからさまに芥川龍之介から笑われている。この芥川のスタイルは本当に太宰節のそっくりだ。

 桜頃のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後も、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。すると窓から流れこんだ春風が、その一枚のレタア・ペエパアを飜えして、鬱金木綿の蔽をかけた鏡が二つ並んでいる梯子段の下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻々としてお君さんの手に落ちる艶書のある事を心得ている。だからこの桃色をした紙も、恐らくはその一枚だろうと思って、好奇心からわざわざ眼を通して見た。すると意外にもこれは、お君さんの手蹟らしい。ではお君さんが誰かの艶書に返事を認したためたのかと思うと、「武男さんに御別れなすった時の事を考えると、私は涙で胸が張り裂けるようでございます」と書いてある。果然お君さんはほとんど徹夜をして、浪子夫人に与うべき慰問の手紙を作ったのであった。――

(芥川龍之介『葱』)

 武夫と波子は徳富蘆花の『不如帰』の登場人物である。作中の人物に慰問の手紙を書く別の作中人物。両方虚構なので案外通じるのかもしれない。いや、芥川はやはりここで虚構と現実の区別のできないお君さんを笑っているのだ。あるいは読者に笑わせようとしているのだ。

 そして次の一文がすこぶる面白いのだけど、肩が疲れたので少し休憩する。ずっと腕を持ち上げているのだ。そりゃ疲れる。




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