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非人情小説とは何か 夏目漱石の『草枕』を巡って①

 不人情小説といえばハードボイルド小説であろうか。しかし非人情小説というものはよく解らない。いやハードボイルド小説の定義でさえ、脂ぎったベーコンエッグを食べる私立探偵の話だと考えてみれば、それは不人情小説とも思えない。おからの好きな素浪人が活躍する時代劇は不人情ではないし、バーのドアを開けた途端殴り飛ばされる私立探偵は本当は金ではなく情で動いているのだ。本当の不人情小説は冷血小説であろう。

 冷血小説、それは例えば酒鬼薔薇くんの『絶歌』であろうか。

 さて『草枕』は不人情小説ではなく、非人情小説と呼ばれている。言い出しっぺは定かではない。大町桂月が既に「所謂非人情小説」と所謂の括弧に括っているので、既に誰かがそう呼んでいたということであろう。そして大町桂月自身は『草枕』が非人情小説と呼ばれることには賛同を示していない。あるいは非人情小説の定義付けにも組しない。
 この非人情小説というものは、ただそう呼ばれているけれども、やはりよくわからないものなのだ。
 漱石の「非人情」という用語についてさまざまな解釈を見てきたが、なかなか腑に落ちない。

 なにしろ『草枕』はこう結ばれているからだ。

 茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合みあわせた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。

(夏目漱石『草枕』)

 憐れは情である。情がない人は他人がどうなろうと関係ない。誰かが切りつけられる映像を見ると「痛い、痛い」と鳥肌が立つ人と何も感じない人がいる。何も感じない人が不人情であろう。あるいは私の本を買わない人が不人情だ。子供が泣いているとうるさいと文句を言うおじさんは、実は共感力が強くて、子供が泣いているといたたまれなくなり、つい文句を言ってしまうのかもしれない。那美さんの顔には情が出た。それを捉えた余が、「それだ!」という。ここで人の憐れを喜んでいるのが非人情ということなのだろうか。

 ではそれは悲劇とは何が違うのだろう。悲劇は不幸を何か価値あるものとして捉えてきた。人の憐れを喜んでいるのは余ばかりではない。

 つまり夏目漱石が「非人情」という用語でどんな新しい意匠を捉えたのか、今一つ明らかではないのだ。ここを「人情を超越したのが非人情」としてしまうと、やはり言葉遊びになってしまう。余と野武士はそもそも関係がないのだから、余が那美さんの憐れに共感してしまうのはやりすぎであろう。その憐れに味わいがあるとみるのは「超越」なのだろうか?

 

草枕 : 新註 竹野長次 編精文館書店 1928年

 このくらい買いかぶってくれると作家は楽なものだ。いや、冷静に考えよう。別れた夫が三等の汽車で出征する憐れは「俗な憐れ」ではなかろうか。では何が非人情なのかと考えてみると、たまたまある作家のある小説の徹底した非人情ぶりが思い浮かぶ。

 芥川の『女』は人情を超越している。何故なら蜘蛛と蜂と薔薇の話なのだ。

 蜂は間もなく翅が利かなくなった。それから脚には痲痺が起った。最後に長い嘴が痙攣的に二三度空を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横たわっていた。翅も脚もことごとく、香の高い花粉にまぶされながら、…………
 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静かに蜂の血を啜り始めた。

(芥川龍之介『女』)

 これは……非人情だ。しかし『女』が非人情小説といわれることは無い。こんな結びなのに。

 まっ白な広間の寂寞と凋んだ薔薇の莟の匂と、――無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所と墓とを兼ねた、紗のような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。

(芥川龍之介『女』)

 これが非人情だと思うが、そういうことではないのだろうか。

 それにしても漱石はどうも『草枕』の出来には満足できなかったようで、その後「非人情小説」そのものも引っ込めたような気配がある。

「裸で蝙蝠傘を引っ張るときさ」
「だって、あんまり人を軽蔑するからさ」
「ハハハしかし御蔭で谷から出られたよ。君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」
「豆を潰すのも構わずに引っ張った上に、裸で薄の中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」
「その代りこの宿まで担いで来てやったじゃないか」
「担いでくるものか。僕は独立して歩行あるいて来たんだ」

(夏目漱石『二百十日』)

 この『二百十日』には「人情」の文字はここにしかない。

「厭な方ね。不人情だわ」
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人だから忘れちまったんです」
「ホホホホ異人だって」

(夏目漱石『野分』)

 さらに『野分』でも「人情」が四回、そのうち二回が「不人情」でやはり「非人情」の文字はない。

 次いで『虞美人草』に「人情」という言葉は十三回、そのうち二回が「不人情」として出て來る。「非人情」の文字はない。

 つまりは人情に絡んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
 いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を拱いて、自然の為すがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像すると怖しくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、眼のあたりに見るようになるかもしれぬ。

(夏目漱石『虞美人草』)

 そして非人情小説が発展したとも思えない。次の長編『坑夫』では、「人情」が三回、そのうち一つは「不人情」、もう一つは、

安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢ったのは全くの小説である。

(夏目漱石『坑夫』)

 この「理非人情」も漱石以前には見つからない。

 研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである。人情で物をみると、すべてが好ききらいの二つになる。研究する気なぞが起こるものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究していけない。自分を研究すればするほど、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あのくらい研究好きの兄が、このくらい自分を可愛がってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないという結論であった。

(夏目漱石『三四郎』)

 そして『三四郎』ではもう非人情小説といったけすらい自体が失われ、全く別の境地が試みられているように思える。

 蒟蒻閻魔の漱石だから非人情小説といわれ、そうだと開き直ったものの、流石にそこに拘泥するつもりはなく、さっさと次に進んだ、というのが本当の所なのではなかろうか。

 それを「人情を超越」と持ち上げてしまえば、やはり作品が見えなくなる。

「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」

(夏目漱石『二百十日』)

 この素朴で単純な正義感を勘繰る必要はなかろう。平民が飢えてもそこに美があるとまで超越した美意識はない。あるいは至極真っ当で真面である。あるいは俗である。けして聖ではない。



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