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シンプルな読みに向けて

 これまで私は夏目漱石から谷崎潤一郎までのいくつかの作品について、何か書いてきた。それを「新解釈とは言えないまでも私なりの感想のようなものをまとめてみました」とでも書いてしまえばいささかでもお行儀が良かろうものを、私は「宇宙で初めての新解釈です」と云わんばかりに書いてきた。これはどう考えても私なりの感想のようなものではない。現に、『途上』のからくりにさえ、誰一人気が付いていなかったのではないか? 『秋風』はどうだろう? こう威張り散らしてみれば、そのあまりのお行儀の悪さのみに呆れて、私の方法論が「あら筋を把握する」「解らない言葉を調べる」「主題を考える」「題名の意味を考える」……といった中学生レベルのシンプルな読解に裏打ちされたさして捻りのないものであることにすら気が付かない人もいるかもしれない。しかし問題は、私のお行儀の悪さなどではなく、私が用いたような中学生レベルの読解を放棄して、ひたすら「難しそうなこと」を詰め合わせる批評・評論のみが幅を利かせ、シンプルな「読み」が放置され続けてきたことではなかろうか。

 先日中央区の図書館で、谷崎潤一郎に関する十数冊の評論を確認してみたが基本は「谷崎は理想の女を描き続けた」という辺りに執着していて、初期谷崎作品に現れる政治的な毒に関する言及は皆無であった。いや「億兆の國民」や「足利尊氏」といった指摘だけでも、これまでの谷崎論の空虚さを証明するのに十分だろう。「谷崎に思想はありませんね」などと訳知り顔に言うのならば、やはり探偵小説・チャンバラ小説が「時代」の軋轢によって生まれたものであることを再考するべきであろう。当然、永井荷風が嫌悪した菊池寛的大衆文学と大衆が時代の中心に在り、永井荷風が森鷗外を繰り返し読み、新しい時代を拒否し、日本文学界を恨みつつ、谷崎作品にだけはわずかにシンパシーを示していたことも含めて、谷崎の「時代」を考えるべきだろう。
 谷崎は伏字も発禁も経ながら、実に巧妙に政治的な悪目立ちだけは避けてきたように思う。そのふるまいはどこか漱石に似ている。

 夏目漱石の『こころ』は、「静を残す」という抜群の当てこすりによる「乃木大将夫妻殉死」批判の形式をとっている。乃木大将の遺書は妻・静子を残す前提で書かれている。それなのに静子は殺された。この矛盾にフォーカスした。
 それは森鴎外がたちまち「半信半疑」となり、立て続けに殉死小説を書き、「殉死とは殿様に許されて場所と日にちを決めてやるもので、女房を道連れにすべきものではない」という殉死の原則を繰り返し再確認したことと対を成す。その態度は「誰が静子まで殺したのか?」と問うているようでさえある。
 この二人は命がけで明治政府のいかがわしさに抗議した。
 しかしその抗議の意味にさえ、この百年間誰も気が付かなかった。

 気が付いてみるとむしろ空しい。鴎外は史伝小説に潜り、漱石はその抜群のアイデアをむしろなかったもののようにうち捨てた。チャンバラ小説は天皇の代わりに殿様を批判し、探偵小説は戦争による大量殺人を批判する代わりに猟奇的で個人的な殺人を掘り下げた。云ってみれば同じ万朝報に関わりながら、黒岩涙香が探偵小説の翻訳に精を出し、幸徳秋水が社会主義・政治批判に走ったのは、この時代との両極端な向き合い方であった。黒岩涙香はそのままでは漢字変換しないが、幸徳秋水は漢字変換される。残ったのは幸徳秋水だったのか?

 芥川がぼんやりと、菊池寛的なものが残るのではないかと考えていたことは、案外深い意味を持つことなのかもしれない。百万人の読者も一千万人の読者も、あるいは何万人もの研究者も博士も、夏目漱石の『こころ』は、「静を残す」という抜群の当てこすりによる「乃木大将夫妻殉死」批判の形式をとっている、というあからさまな事実に気が付くことはなかった。
 これまで誰一人として。
 漱石は高い自恃のために、日記には記した「これは神聖か罪悪か」という文字を『こころ』には書かなかった。書けばたちまち通俗のレベルに堕ちてしまうことが解っていたからだ。谷崎はあえて俗悪を描きながら、なおも永井荷風に罵倒されなかった。

 永井荷風にはぎりぎり、谷崎のその意地が見えていたのではなかろうか。女の洟の染みた手巾をしゃぶること、株を買うこと、女を買うこと、そんなことで文学は涜されはしない。

 文学は、例えば『こころ』のKを苗字だと勘違いすることによって涜される。そんな勘違いは、決して許されることではない。それでは漱石の自恃が無意味なものになってしまう。「なら解りやすく書けよ、伝わらないよ、そんなんじゃ」と批判しているのと同じことだ。

 これはけして笑って済まされることではないのだ。高橋源一郎や島田雅彦程度の者たちによってなされたそんな愚かしいふるまいは、すみませんではすまない。そしてそんなやからを崇めてきた者たちも同様の責任を負うことは言うまでもない。違うものは違う、駄目なものは駄目だと言わねばならない理由がそこにある。





買わないの?

お金ないの?

合ってる。







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