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川上未映子の『淋しくなったら電話をかけて』のどこがこわいか?

 今様々な書き手がアルファベットを縦にしたり横にしたり、片仮名で略してみたりと大いに工夫しているものを、まるで電話器で写真を撮ることもカメラで話すことも好きではないという村上春樹にインスパイアされたかのように無骨でさりげなく「電話」と言い切ってみる。その命名に『淋しくなったら電話をかけて』の意匠は半ば汲み尽くされている。

 電話って、誰かと話す機械だったっけ?

 四十一歳のどこかおかしい女、あるいはどこかに必ずいるだろうという孤独な女である「あなた」の心の中のつぶやきや目にすることどもがやかましく書き込まれた『淋しくなったら電話をかけて』はまた殺伐としたコロナ禍の日常を少々意地悪く捉えて行く。つまり「あなた」は始終何かに突っかかりながら、不機嫌に過ごしている。何かのバランスに欠いていて、心の中で始終何かに絡んでしまうが、声には出さない。

 当たり前だ。みんなそんなものだろう。心の声をそのまま外に出してしまったら、現実の世界では頭の可笑しい人間にされてしまう。だから「あなた」は舌打ちさえも胸の中でする。

 パン屋、郵便局、電柱、歯医者、角、神社、看板、駐車場。あなたはあなたの左側をゆっくりと流れてゆくものの名前を読み上げ、家とは反対のほうへ歩いていく。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 実際に「あなた」が見たものは白いテントとトリコロールであり、赤いポストや「空」あるいは「満」の掲示板だったかもしれない。しかし「あなた」は左側を流れていくものを名前で読み上げる。右は見ない。

 それは誰の目にも見えないが、風が吹きつけるたびにあなたと世界の境目は微かに乱されつづけている。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 どういうわけか「あなた」は死にたいわけでも生きていたいわけでもない。「あなた」にはいくところがどこにもない。たしかにそんな「あなた」はきっとありふれた存在だろう。私もそんな女性を一人知っている。「あなた」は電話でSNSを見る。それが今では電話の正しい使い方だ。

 救急車の奥、非常口のわきでひとりの女が泣いている。電話を耳にあてがいながら泣いている。あの電話が、泣いている女の手にした電話が、実は誰にも繋がっていないことを想像する。あなたは忘れているけれど、ずっと昔にあなたもそうしたことがあったので。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 あるいはこんなやり方も現代では許容すべき電話の使用方法かもしれない。

 ある小説家の自殺を電話の画面で知った「あなた」は、喫茶店で電話で話している女を見て、自分も誰かに電話をかけようと思う。しかし電話をかける相手も一つの名前も思い出せない。「あなた」は電話で話している女に声をかけ、話している相手ごと電話を借りようとする。

 その電話貸してもらえませんか。誰と話しているんですか。指輪きれいですね、何を話しているんですか、素敵ですね、素敵ですよね、一体誰と話しているんですか。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 これは誤った電話の使用方法に違いない。淋しくなったから電話をかけるなど、とてもまともなことではない。SNSでイイネするのが唯一真面な電話の使用方法だ。生身の人間に面と向かってイイネしてはいけない。電話というものは昔と今では全然別のものなのだ。いや、SNS以降の世界と人間の関わり方は全く別の形に変化してしまったのだ。

 これは四十一歳の孤独な女の話ではあるが、人が電話に殺される電話のこわさに関する話でもある。作者は、この電話というものが定期券となりお財布となりマイナポータルと接続されるデストピアをまだ描かない。作中で自殺した小説家はそこまで書いてしまっていたかもしれない。変容した世界と電話のあり方について本当のことを書いてしまっていたかもしれない。

 川上未映子の『淋しくなったら電話をかけて』のどこがこわいか? それはこんな題名のような台詞が絵空事だからだ。淋しいからと言って電話は誰にでもかけていいものではない。『淋しくなったら電話をかけて』、そんな台詞がいかにもありそうでけしてない世界、そんな台詞がいかにも非現実的に響く現代を捉えているからこわい。 


[余談]

 丁度読み終えたタイミングで、固定電話のベルが一度だけ鳴って切れたらこわい。

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