平凡すぎる彼の嘘 牧野信一の『爪』をどう読むか①
本人の弁によればこれはどちらかわからないほぼ処女作の一つである。らしく書かれている。
最初は一言。次に従属節から始まり少し長く、それをもう一つ。三行目をもう少し長めに繋いでいくやり方は、誰が始めたかわからないが、長短の文章を絡めてリズムを作っていくやり方は現在では最もありふれた作法の一つだ。
最初を少しだけ長く、次を極端に短く、その次をやや長くでもいいし、最初からやや長いものを持ってきてもいい。この話法の特徴はどこかに短い一言を入れてくることだ。そういう書き出しは少なくとも森鴎外の『舞姫』には確認できるが、幸田露伴の「木理美しき槻胴」がそのパターンにあるのか、それはまだ古い日本語に属するのか意見の分かれるところであろう。少なくとも川端康成の『雪国』まではどこかに短い一言を入れてくる長短の文章を絡めてリズムを作っていくやり方は新鮮なものであったのだろう。今ではあまりに使われ過ぎて、やや嫌われるやり方である。
しかしなかなからしいではないか。
どこでどう覚えたものか妙に達者である。当時としてはかなりこなれた書き方ではなかったか。新かなづかいに改めて見せたら、これが大正時代の日本語だとはほとんど気づかれまい。逆接の接続詞「が」が二回続いたところでさして気にはならない。112文字と81文字の比較的長めのストロークがそう意識させないのだ。
なるほど殆ど「私」のようなものを「彼」と呼んでみることで辛うじてこの書き出しは成立している。「彼」は意識から逃れられない「私」より少し突き放されて書かれている。それはまた「私」が「私」を語るいかがわしさの回避でもあるのであろうが、かといって「彼」を観察できるものが外にいるはずもないのだが。
谷崎潤一郎が「チヨツ」、漱石が「えつ」と舌打ちするところ牧野は「チエツ」と舌鼓を打つ。
なるほど石川啄木も「チヨツ」と舌鼓を打っている。文章のことはひとまず置こう。どうも彼は少しおかしいようである。とはいっても作家や詩人はたいていどこかおかしいものなので気にすることもあるまいとは思うのだが、本人はどうも気になるらしい。
まともな人間は立原道造くらいだ。
寝ているんだか座っているんだかわからない。どうしようもない男が一人、悶々としているという世界中のあらゆる場所で有史以来繰り返されてきたありふれた景色がそこにある。苦しいとか死にたいと言わないだけ救われている。
ところで本多はその名前の通り本をたくさん読んでいるのに、松枝清顕は本を読んでいる様子がない。「彼」も本を読まない。これはわざと読ませていないのだろう。牧野信一自身は細切れにせよ、そこそこは本を読んでいた筈だ。むしろそちらが病気のようなもので本を読む人は三日も本を読まないことに耐えられない。しかし牧野は本を読まない「彼」を捏造しようとしている。その狙いがどこにあるのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
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