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『彼岸過迄』を読む 15  謎ロジックがスルーされる日々


 これも言われてみれば三秒で解る話ですが、言われるまで案外気が付いていないだろうな、というような話を書きます。

 気が付いてました?

 『門』と『こころ』と『彼岸過迄』の関係です。『こころ』には悪い叔父が現れ、遺産を掠め取り、さらに従妹と結婚させようとします。しましたっけ?

 その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。その女を貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風な話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。(夏目漱石『こころ』)

 してますね。『門』では叔父叔母にあたる佐伯夫婦がやはり遺産を胡麻化しますが、この家には安之助という一人息子しかいませんので、「従妹と結婚させようとする」ということは無いわけですね。

「貴夫どうしてその御縫さんて人を御貰いにならなかったの」
 健三は膳の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕かされた人のように。
「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己はまだ子供だったしね」
「あの人の本当の子じゃないんでしょう」
「無論さ。御縫さんは御藤さんの連れっ子だもの」
 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」
「どうなってるか判らないじゃないか、なって見なければ」
「でも殊によると、幸福かも知れませんわね。その方が」
「そうかも知れない」
 健三は少し忌々しくなった。細君はそれぎり口を噤つぐんだ。(夏目漱石『道草』)

 少し形は変わりますが、近親者との縁組、魂胆の見える縁組というものが『道草』にもありましたね。

 さて『彼岸過迄』ではどうでしたっけ。

 田口要作と須永市蔵と千代子の関係がありますね。どうも田口はお金持ちあるいはお金を稼いでいる人です。官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有っている相当な位地の人です。その娘と市蔵を結婚させたいのが市蔵の母です。一方千代子の母はそんなことは全く考えられないようです。

「市さんにはおとなしくって優やさしい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」
「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自みずから嘲けるごとくこう云った時、今まで向うの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
あたし行って上げましょうか
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。僕は低い叔母の声のうちに、窘めるようなまた怖れるような一種の響を聞いた。千代子はただからからと面白そうに笑っただけであった。その時百代子も傍にいた。これは姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立った。形式を具えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくしてまた席を立った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 まあ、そうなんでしょう。何となくは解りますよね。ただ本当に分っていますか。「妾の子に娘はやれない、やれるわけはない」と田口要作の妻は市蔵を差別している訳ですよね。少なくとも市蔵にはそう見えたと。

 では一方で、市蔵と千代子を結婚させたいという市蔵の母親の魂胆って何ですかね。ここ、松本恒三の説明をよく確認してくださいね。

 一口でいうと、彼らは本当の母子ではないのである。なお誤解のないように一言つけ加えると、本当の母子よりも遥かに仲の好い継母と継子なのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 気が付きました? 継母と継子なんです。養子縁組したとは言われていないんです。庶子は旧民法では相続権がない筈ですよね。ということは須永家の財産は須永の母のものですよね。それとも「表向き自分の子として養育した」とありますから嫡子として届け出たんですかね。

「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、身縁のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」
「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」
 市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この理屈ですが「やっぱり血統上の考えから、身縁のものを僕の嫁にしたい」って何だか解ったような解らない話じゃないですか。ところがこの謎ロジックに松本はあっさり同意してしまうんですね。しかしこれはまさに謎ロジックではありませんか?

 違います?

 結婚では血族にはなれないんですよ。「血統上の考えから、身縁のものを僕の嫁にしたい」は謎ロジックではないですか。

 言われてみればですよね。

 三秒で解りますよね。

 でもこれまで「わかるわー。このお母さんの切ない気持ち痛いほど解るわー」と同情していませんでした?

 それでも「いや、俺には解る」と言い張りますか?

 それ、本当は解っているんではなくて、松本恒三に釣られているだけじゃないですか?

 阿刀田高は『坊っちゃん』の「清」を「ねえや」だと誤読します。その上で「清の愛情は恋に近い」とまで書いてしまうわけです。「いや、俺には解る」で何でもかたづくものではないですよ。

 千代子と市蔵が結婚すれば、須永の母は、須永から見て姻戚上の叔母さんにはなれるわけですが、血はつながりません。千代子が市蔵の子を産めば、ようやく市蔵の母はその子から見て「お婆ちゃんのお姉さん、伯祖母」になれるんですかね。

 それってそんなに重要なことなんですか?

 それより正式に養子縁組をして継母と継子の関係から養母と養子の関係になるのが先じゃないですかね。

 この「血統上の考え」に引っかかると、「連れ子」と「養子」を結婚させようという『道草』の島田の魂胆も何だかおかしなものに見えてきませんか? 誰に何の得があるのかよく解りません。これ、やや謎ロジックですよね。まあ、御縫にとっては得なんですかね。

 こうやって並べて行くと、未亡人の財産を貰うために静と結婚した先生のロジックがあまりに正々堂々としていて、従妹と先生を結婚させようとした『こころ』の叔父の魂胆もやや曖昧に感じられてきます。これも、やや謎ロジックですかね。せっかく掠め取った自分の財産も結局先生に相続されるわけですから、行って来いじゃないかと思えてきます。

 彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿むことして肯わないつもりらしかった。もっとも僕は神経の鋭どく動く性質たちだから、物を誇大に考え過したり、要らぬ僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は憚りたい。ただ一言で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。が、その後彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ惚けかかった空しい義理の抜殻を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば差支えないのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 須永の見立てに関わらず、原因は「継母と継子」問題だったとは片付けられないことも見ておきましょう。最初と条件的に変わったのは、須永の父の死、主計官としてだいぶ好い地位にまで昇った父の早い死と、田口が官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有っている相当な位地の人となったことですかね。

 最初から「妾の子に娘はやれない、やれるわけはない」のであれば、そもそも妙ちゃんくらいはっきり差別していればよかったものが、どうも叔父叔母の態度は次第に変化してきたようではありませんか。「妾の子に娘はやれない、やれるわけはない」のであれば、市蔵に千代子を近づけさせないのが一番です。

 田口の考えはそうドラマチックなものでもなさそうです。

 けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この曖昧な男の事を僕はなお委しく聞いて見て、彼が今上海にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと父母が眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男それが好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に考えを有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 須永市蔵には身分がありません。ですから結局、

 それはこむずかしい理窟だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を捻ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の佐伯から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の纏らない先から、奥の委しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ漠然とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも明瞭な答はでき悪いんですが、ちょっと考えて見てもむずかしそうですね」
「そうかね、僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ」
知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから
 敬太郎は佐伯の云わゆる「複雑な事情」なるものを根掘り葉掘り聞きたくなったが、何だか自分を門外漢扱いにするような彼の言葉が癪に障さわるのと、たかが玄関番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云われては自分の品格にかかわるのと、最後には、口ほど詳しい事情を佐伯が知っている気遣いがないのとで、それぎりその話はやめにした。そのおりついでながら奥へ行って細君に挨拶をしてしばらく話したが、別に平生と何の変る様子もないので、おめでとうございますと云う勇気も出なかった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 まずここで、千代子が身分の実業家と結婚は確定でいいですよね。なんだ、結局田川敬太郎の出番はないのかという話ですが、『三四郎』の美禰子の結婚くらい「裏切り感」がありますよね。

 それから書生の佐伯の「知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから」ってどうなんですかね。

 これ市蔵の出生の秘密を書生迄知っていて、原因は「継母と継子」問題だと決めつけているような感じがありますけど、複雑な事情と言っていますからそこだけじゃないんでしょうね。田口要作からすれば須永市蔵には教育はあっても身分がない、その妻からみると市蔵と千代子では性格が合わない、しかし一番駄目なところは結局働いていないというところではないでしょうか。働いていないのに嫁を貰おうなんて無理がありますよね。「尾羽うち枯らさないばかりの体たらくだ」って市蔵のお母さんも言っていますからね。嫁が欲しければ、まず働けということですよ。

 その真っ当なロジックが継子への愛に溺れる市蔵の母と、本物の高等遊民・松本恒三にはどうしても解らんのです。



[付記]

 書生の佐伯が市蔵の出生の秘密を知っていた、というところに少し引っかかるんですが、そうだとしたら田口家では市蔵に関して多少議論があったんでしょうね。あるいは言い争いが。

 仮にそうだとすると、千代子も市蔵の出生の秘密を知っていた、ということになるんでしょう。

 問題はそれがいつからか、ということですね。これが、うーん。解らない。















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