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からつくや昨日碓氷に榾火かな 夏目漱石の俳句をどう読むか107
親の名に納豆売る児の憐れさよ
川柳のようなリズムでさらりと解らないことが詠まれている。解説の人は解っていて、あえてなにも解説していないのかな?
本当にそうなの?
私にはこの「親の名に」の意味が解らない。「に」が解らない。場所、結果、方向、目的、状態、理由、相手、資格、強意……。
手段かな?
つまり「親の名で」、
たとえば「え~い、長太郎納豆いらんかね」と親の名を冠した納豆を十之助が売り歩くと。
いやしかしそれだと納豆売りの親子の名前を両方知っていないといけないことになるな。それにそもそも親の名の納豆を売るのが憐れかね?
まあ寒い中、声をからして納豆を売っている小さな子がいたら、憐れか。
からつくや風に吹かれし納豆売
解説に「からつくはからからに乾く」とある。そしたら死んじゃうよ。
散々調べてみたけれど「からつく」で「乾燥している」という意味の使用例はごくわずかで、まあ皮膚病らしきものに使われているものがあったんだけど、どうも釈然としないんだよね。
みんなはどう思う?
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これもしかして、
のりのりの風に吹かれし納豆売り
バイブスの妙にアゲアゲ納豆売
こういうことじゃないの?
この解釈だと全く意味が変わってきて、前の句で「憐れ」かと思ったら、案外ノリノリで楽しそうじゃん、とひっくり返っていることになる。
どうなのこれ?
この説が通ったら、結構大事にならない?
榾の火や昨日碓氷を越え申した
解説に「碓氷は碓氷峠」とある。
そのまま解釈できない句である。
まあ、小森陽一なら「これはセックスですね。峠を越えたということは女と一線を越えたという意味です。碓氷と言えば関所で有名ですから」と断言するかもしれない。
これは想像の句で「軽井沢の温泉宿の大囲炉裏の榾の火の前で、ええ、東京からです。昨日碓氷峠を越えてきましたよ」とかなんとか言っている様子、という解釈はどうだろう。「申した」が古い言い回しなんだよね。
梁山泊毛脛の多き榾火哉
これも想像の句で、梁山泊に集まった『水滸伝』の豪傑たちが毛脛をむき出して榾火にあたっている様子を思い浮かべている句、とまずは解釈できる。
これは『忠義水滸伝』の第二十回の場面を読んだ句だと推定していた人がいた。
ちなみに『八犬伝』の句に関しては私と解釈が異なる。犬山道節と犬川荘助の名乗り合いが定説にならないように一応念押ししておく。
また梁山泊は豪傑が集まる場所の例えとして、男むさい連中が集まって榾火にあっている実景を読んだ句とも解釈できる。さみしがり屋で人が集まる不思議な性格の漱石のこと、むさい男どもならいつでも集まってきそうに思える。
[余談]
平野啓一郎の『三島由紀夫論』が間違いだらけなので、悲しくなる。もう、本当に書き直してほしい。
絶対ばれるよ。
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