芥川龍之介の『O君の新秋』をどう読むか① うら寂しくさえない秋
別に芥川龍之介の死の覚悟、自殺の決意の時期を確かめる為ではなかったが、俳句の鑑賞のために書簡集を一通り読み直してみてやはり、結果として
①自殺の覚悟は『温泉だより』が書かれた時期
という考えは改めるべきではないかと考えるようになった。二年前から死に方を研究していた、漱石の命日に死のうとしていた、でいいじゃないかと思えなくもないが、本来どうでもいい自殺の覚悟の時期の問題が、芥川の晩年の作品に対する解釈を侵食しすぎているきらいがあるように思えることから、やはり事実としてどうだったのかということは気になるのだ。
私は既に小穴隆一に対する芥川の告白が必ずしも100パーセントの真実ではなく、さびしがり屋の芥川が小穴を繋ぎとめるための狂言の要素もあったのではないかと書いている。(書いたかな?)
書いているな。どうもまだまだ死にそうにない芥川というものが大正十五年に確かにいて、小穴が嘘をついているとも思えず、そこから考えると無理のない仮説だと思う。
その死にそうにない芥川というのはよく読めば小説の中にもいて、これは小説と云うより随筆に近いのかもしれないが、とにかく『O君の新秋』などは死の影を全く感じさせないものなのだ。
全くうら寂しささえ感じさせない秋の一コマである。書かれていることもたわいのないことだ。紫苑の名が出てこない。気の許せる友人と二人、会話にならない会話をしている。それでいて二人とも退屈もしていないのだろう。そんなまれらな関係と時間をいつくしむような眺めである。
あなうらを仰向けにした義足の物々しさがむしろ、生命のたくましさを印象付けている。
※「持て扱つてゐる」……もてあましている。
どうやらO君はさして繊細ではなく、悲嘆家ではなく、のんきなようだ。少なくとも『O君の新秋』ではそう仕立て上げられている。O君の片足がないことは、立て続けに三度からかわれる。あのお嬢さんが長い足を持て余しているとしたら、君は短い足を持て足らなくしているじゃないかととどめまでは刺さないが、この話の振りとして最初に義足を出してきたことは間違いないのだ。
一緒にいたはずの芥川は一言も発しない。ここはO君一人に処理させた方が話が面白くなるからだ。横から誰かがかばいだてをすれば、何か気の毒な感じが出て、しかも巡査が悪いような空気になってしまう。『O君の新秋』を小説と云ったのは、義足のふりがあり、持て扱うという皮肉があり、O君一人に処理させるという細かい細工があるからだ。
ここも芥川は洒落にしない。オオルというけれど欠けているぢやないかとは言わない。しかしここで話が切れているので、落としているつもりであることは疑いえない。
どうも芥川は死にそうにない。神経が尖っていないし、むしろのんびりとしている。そして愉快な友達O君に微笑んでいる。O君の自炊生活がのんきそうで面白いのだ。そしていい大人が少年のようにテレパシーの話をしている。
七輪に枯れ松葉や松蓋で飯を炊けば、さぞや煙が酷かろうと思うところ。炭は買えないのかという代わりに、「どうだね? 飯は炊けるかね?」という芥川の皮肉が健全である。弱っていたら言えない皮肉だ。飯は炊けても菜はどうするのだろう。そんな心配もしない。気遣って手土産もない。そういう関係性が自然で実にいい。
わくら葉は蝶となりけり糸すすき
そうO君は俳句を詠んでいるが、病葉は飯の焚きつけになっている。のどかな、まるで春のような秋の景色である。この小品は十五年十月十一日、鵠沼で書かれたものとされている。
この景色の中の芥川は、小穴が描くこの時期の芥川とは別人のように思える。それは佐藤春夫や小宮豊隆が描く芥川が別人のように思えることと必ずしも同じ意味ではない。猿股は貸してくれそうだが、山高帽にはおびえまい。そんな芥川も確かにいたのだ。
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