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『三四郎』の謎について34 何故美味しいですねと言わないのか?

 私はこれまで近代文学1.0は所詮文豪飯と顔出しパネルだと批判してきました。

 残念なのは少なくない人々が文学作品をグルメ本として読んでしまうことです。いや、冗談でもなんでもなく、一部の人はそうとしか読めないのです。

 この記事の中で「橡の実うまそう あたりが楽しむポイントでしょうか」とツイートされている方は、なんと新潮新書から『食魔 谷崎潤一郎 』という本を出版されているのです。ここが近代文学1.0と2.0の分かれ目だと思うんですよね。

 夏目漱石に関しても、村上春樹に関してもグルメ本は出ています。それ自体が悪いという訳ではありませんが、ならば何故気が付かないという辺りの話を今回は書きます。

 夏目漱石のグルメ本では『三四郎』の駅弁は何駅辺りで買ったものだろう、ということが調べられています。結論だけ言えばおそらくそれは間違いなのですが、不思議なのはその周辺に疑問を持たないことです。

 例えば汽車の女は弁当箱には当たりましたが何を食ったとも書かれませんよね。三四郎と泊まった宿でも晩飯のことは書かれていません。

 夜はようよう明けた。顔を洗って膳に向かった時、女はにこりと笑って、「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口の葡萄豆をしきりに突っつきだした。(夏目漱石『三四郎』)

 ここまで物語のスピードがかなり速いのでついつい見逃してしまいそうですが、女は一晩何も食べていません。女は腹を空かせていて、三四郎はそのことに一切気遣いをしていないのではないでしょうか。そりゃ、明治の九州男児が、しょっちゅうお腹すいてない、トイレは大丈夫、荷物持とうか、などと声を掛けるとは思えませんが、それにしても構わなすぎではないでしょうか。

 やがて二人のあいだに果物を置いて、
「食べませんか」と言った。
 三四郎は礼を言って、一つ食べた。髭のある人は好きとみえて、むやみに食べた。三四郎にもっと食べろと言う。三四郎はまた一つ食べた。二人が水蜜桃を食べているうちにだいぶ親密になっていろいろな話を始めた。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面まで読み進んで「おや? 甘いとも美味いとも言わないな」と思い、常識がないなと、もう一度弁当のシーンに戻りますと、

 三四郎は思い出したように前の停車場で買った弁当を食いだした。
 車が動きだして二分もたったろうと思うころ、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。この時女の帯の色がはじめて三四郎の目にはいった。三四郎は鮎の煮びたしの頭をくわえたまま女の後姿を見送っていた。便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている。
 女はやがて帰って来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもうしまいがけである。下を向いて一生懸命に箸を突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。しかし三四郎が目を上げると同時に女は動きだした。ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。風が強くあたって、鬢がふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎はからになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。(夏目漱石『三四郎』)

 漱石が赤ニシンによる幻惑を使ったと気が付かないのは、赤ニシンがあまりにも見事だからです。弁当の折を窓から投げることに気を取られて、ここで「あれ、三四郎は福岡の田舎から出て来て、駅弁なんて初めて食べるんじゃないかな。見たこともない珍しいおかずの一つや二つもあるだろうに、全然グルメリポートができていないじゃないか。ぷりぷりを使わないでエビ料理の美味さを伝えるのがどれだけ難しいか解っているのか、漱石は。口の中にひろがる、も駄目なんだぞ。少しは工夫しろよ」と文豪飯の大好きな近代文学1.0の人たちが指摘しないのは残念なことではないでしょうか。

 漱石はむしろそうした批判を「三四郎が東京で驚いたものはたくさんある」として退けています。三四郎が汽車の女の腹の具合を気にしないのは、文豪飯などどうでもいい、食うことなどどうでもいい、もっと書くべきことはあるという宣言なのではないでしょうか。近代文学はスチューやビフテキではないのだと、そう言いたいのではないでしょうか。本来食い意地の張った漱石が、「美味しい」とは決して言わせないのです。文豪飯と顔出しパネルは文学ではないと主張しているのは私ではなくて夏目漱石なのです。

 それから真砂町で野々宮君に西洋料理のごちそうになった。野々宮君の話では本郷でいちばんうまい家だそうだ。けれども三四郎にはただ西洋料理の味がするだけであった。しかし食べることはみんな食べた。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面の冷淡さはどうですか。おそらく田舎者だから西洋料理なんか食べたことがないだろうと御馳走してくれているのにいかにも甲斐がないことです。真面な人間ならば、ここはお世辞くらい使うところです。三四郎はそんなことはしません。グルメリポートがないのです。

 もう何となく分かりましたよね、この食べ物を敢て軽視する態度はかなり徹底しているんです。

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。(夏目漱石『三四郎』)

 おそらく三四郎がライスカレーを食べたのはこれが初めてでしょう。なのに辛いも甘いも味の感想は一言もなく、そればかりか初めてのものに出くわしたときのしかるべき観察というものがありません。ここも礼儀としては辛いなとか、珍しいものだとか、奢られているなりの態度があるべきです。何も反応がないのは変なのです、その所為で淀見軒のカレーライスの具や容器、つまりソースポットが使われていたかどうかなど詳細が解りません。西洋料理を食べた時、フォークやナイフでまごつく様子も書かれていません。グルメリポートがありません。

 三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。(夏目漱石『三四郎』)

 熊本では赤酒ばかりを飲んでいた筈です。なのにここでも一言の感想もありません。グルメリポートはありません。

 まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さい膳ぜんを控えて、晩飯を食った。膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かのひめいちがついている。久しぶりで故郷ふるさとの香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。(夏目漱石『三四郎』)

 ここでは飯は上手くなかったとして「ひめいち」の味の感想を云いません。グルメリポートはしません。上手く逃げています。

 美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しもよどみがない。しかもゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。
 台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。(夏目漱石『三四郎』)

 ここでも何も言いません。三四郎はサンドイッチなんて食べたことがない筈です。しかもこれはただのサンドイッチじゃあなくて、美禰子の持って来たサンドイッチなんだから味でないにしても「ひめいち」程度に別の角度から嬉しがっても好い筈の場面です。馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのを食べて「堅い」と感想を言うのは広田で三四郎は何も言いません。徹底してグルメリポートはしません。

「学生集会所の料理はまずいですね」と三四郎に隣にすわった男が話しかけた。この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡をかけたおとなしい学生であった。
「そうですな」と三四郎は生返事をした。相手が与次郎なら、ぼくのようないなか者には非常にうまいと正直なところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。(夏目漱石『三四郎』)

 そう、田舎者なら西洋料理を食べてもカレーライスを食べてもサンドイッチを食べても珍しがって美味しいと言うべきなのです。いや、茶碗蒸しだって九州と東京では具が違います。

 しかし言いませんね。なにがどうとグルメレポートをしません。ここでは敢て云うのを止めてさえいます。精養軒の会のシーンでは与次郎がビールを飲むほか、誰が何を食ったという記述さえなくいきなり食後になります。なお、コーヒーもケーキも書かれません。敢えて書かれていないとしか思えません。本当に徹底されています。

 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面ではもう当然の如くグルメレポートは省かれます。それにしても「広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た」というのもちぐはぐで可笑しいですね。

 暖かい汁の香をかいでいる時に、また故里の母からの書信に接した。(夏目漱石『三四郎』)

 これはもう寸止めというレトリックと見做していいでしょう。

「蜜柑をむいてあげましょうか」
 女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。
「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞よ」
もうたくさん
 女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。(夏目漱石『三四郎』)

 近代文学1.0の人たちが「いや、そこで美味しいの一言を何故言わない」と指摘しないのは基本的に「読む」という能力に欠いているからですよね。ここは三四郎もそうですが漱石も賺しています。三四郎がものを食う場面はここが最後です。これは例の、

「時に何時かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
そう云う事もあるまい
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
君これからどこかへ行くのかい
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。(夏目漱石『虞美人草』)

 この天皇という雅号をあざ笑うかのような態度と同じですよね。この場合はよし子に対して美禰子のお見舞いだから美味しいとは言いにくいという心理を書いているのでしょうが、『三四郎』全体を通してみるとその徹底ぶりから、反文豪飯、反グルメレポートとしての『三四郎』という作品が見えてきます。だいたい

「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞よ」
もうたくさん

 っていったい何なんですか。会話になってませんよね。まだ召し上がりますか? と訊かれたわけではないのですから。「もうたくさん」はないですよね。まあ文豪飯とグルメレポートはもうたくさんと言っているわけではないのでしょうが。

  兎に角夏目漱石は文豪飯とグルメレポートに反対しています。

 それでもまだあなたは文豪飯の近代文学1.0に留まりますか?

 それともこっちに来ますか。

[余談]

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 茶碗蒸しの具ですが、鰻押しみたいですね。



 どこやねん。











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