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谷崎潤一郎の『鶴唳』を読む 後で何とでも言い訳ができる

 私がこのnoteの読者は谷崎君一人ではないかと疑うことを、根拠のない悪ふざけだと決めつけたい人もいるかもしれないが、どうもそれは事実らしい。私が「舌打ちの流儀」を書いたのを読んで、谷崎君はこんなことを書いてきた。

 少女は、鰌か何かを入れてある壺をさし出してチヨツ、チヨツ、と,舌を鳴らしつつ、「さあ、此れをお上り、」-とでも云ふのでせうか、支那語らしいので意味は分りませんけれども、彼の國の言葉に特有な小禽の囀るやうなキイキイした發音でさう云つて居ます。(谷崎潤一郎『鶴唳』)

 つまり舌打ちとは本来無意識のものであろうはずがなく、意図してそう発しているのだと、そう谷崎君は云いたいわけだ。そして私が谷崎の日本批判に関心があり、『蘇東坡』でその尖った支那趣味に手が届かないと知るや、こんなことを書いてくる。

其の頃の話ですが、靖之助はよく、「日本は詰まらない、何處か外國へ行つてしまひたい」と、口癖のやうに云つて居たさうです。(谷崎潤一郎『鶴唳』)

そして、「日本は詰まらない、日本の國に居たくない。」と結局はそれを云ひ出します。彼の樣子は、妻に限らず、此の町の凡べての人に、-事に依ると人生全體に、强い反感を抱いて居るやうでした。(谷崎潤一郎『鶴唳』)

我が儘な靖之助は、日本が戀ひしさに戾つて來ながら、やはり支那を忘れることが出來なかつたのです。(谷崎潤一郎『鶴唳』)

彼はもう、日本語を一と言もしやべらないで、いつも支那の女とばかり、何か樂しげに支那語で話し合つて居ました。そしてそんな時にはまるで別人のやうな、機嫌の好い笑ひ聲さへ洩れて來ることがあつたのです。(谷崎潤一郎『鶴唳』)

「お父さんはいつになつたら、日本語をお話しになるのでせうか。」照子が、漸く自由に會話する事が出來るやうになつてから、父に尋ねたのはそれでした。「己は一生日本語は話さない。」(谷崎潤一郎『鶴唳』)

 いや、そんなことを言ったってだね、流石に支那語は無理だ。DeepLでさえ、一番精度が悪い組み合わせが中国語の日本語訳ではなかろうか。名詞と動詞を取り違えるし、熟語や固有名詞の学習量が足らない。

 さて、この『鶴唳』はどういう話かというと「私」が三月初旬の天気の良い日、古ぼけた石の塀がある一軒の家を見つける。その塀の中では支那服を着た少女が鶴と遊んでいた。その家のいわれを聞いて見ると、支那好きの星岡靖之助が妻「しづ」と娘「照子」を残して支那に行き、七年後に鶴と十七八の支那の婦人を連れて戻ってくる。靖之助は日本に戻っても支那趣味で暮らし、日本語を話さない。照子は「お母さんの敵」と云って支那の婦人の咽喉に短刀を突き刺して殺してしまう。その支那の婦人の悲鳴が鶴唳にそっくりだ、というお話だ。

 これは鶴唳が

送り込むと同時に鶴はぐつと唾液を嚥んで、眼には切ない淚を溜めさうに思ひますが、それは人間の考へで、彼女は猶も空を向いたまゝ、切なかつたのか旨かつたのか、兎に角ガアガアと鵝鳥の啼くやうな聲で啼きます。さつき私が塀の外で聞いたのは、その鶴の啼き聲と少女の言葉だつたのですが、所謂「鶴の一とこゑ」などと云ぶものも、さうやつて聞いて見ると何となく騒々しいばかりで、あまり品の好いものでもありません。

 ……と、振られていたことから、支那の婦人があまり品の良くない悲鳴をあげて死んでいったという、落ちになる。

 それにしてもこの行き過ぎた支那趣味からの、仇をとるような支那の婦人殺しの意味は何だろうか? ここにはどんな思想が現れていると見るべきなのだろうか?

 谷崎君がこんな作品を書き、意味なり思想なりを探らせようとするのも、やはり、

 この記事を読んだからなのだろう。『鶴唳』はこれまでの作品にいや増して、「超越論的なんちゃってビリティ」を意識した作品と云えるだろう。官憲に「日本は詰まらない、日本の國に居たくない。」とはどういうことだと詰められれば、支那の婦人を殺したじゃないですかと言い訳できる。支那の婦人を殺したなと詰められれば、殺したのは娘で靖之助はあくまで支那贔屓ですよと言い訳できる。支那贔屓なのかと詰められれば、靖国神社の靖に天照大神の照ですよと言い訳できる。いかようにも、いかようでないとも解釈できる。

 つまり後で何とでも言い訳ができるように書いている。しかし間違いなく日本という大きなものを対象にして書いている。日本に支那の家庭を持ち込んだらどうなるかという思考実験が行われている。ここにあるのは変態性欲ではない。三島由紀夫から島田雅彦迄が一様に批判しているように、谷崎潤一郎が政治的なものを拒否して自身の変態性欲の世界にどっぷりとつかった作家であるという見立てはそろそろ「間違い」だと認めるべきではなかろうか。「己は一生日本語は話さない。」とまで日本を嫌う日本人を描くことは、大正十年に於いて既に剣呑なことではなかったか。前年には、尼港事件が起きている。

 六月には東京市電運転手連続殺傷事件が起きて、この作品が書かれた翌月、原敬が刺殺され、昭和天皇が摂政になっている。

 この時代に日本を相手にすることは真面ではない。その時代を思えば、こうした思想性のかけらも見えないような小品に於いてさえ、日本だとか支那だとかチヨツだとかチユツだとかそんなことを意図してそう発してしまうことはささやかだけど取り返しがつかないことなのだ。

 鶴の啼き声は鵝鳥とは違う。しかし霊鳥とも言われる鶴の啼き声が案外品の良いものではないことも亦事実である。





 














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