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谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか⑤ 頑なに今を拒んで

 谷崎の教養の基礎は、漢籍などの開国以前のもの、いわば前近代的なものに限られると云うわけではない。観劇の体験がある。これは立派な教養である。その教養から谷崎は現代劇をも生み出そうとする。『春の海邊』は、工学士・三枝春雄の妻・梅子が文学士・吉川清と姦通していることが露見する話である。いや、露見したようでありながら、そのことがうやむやなまま、何もなかったかのように閉じられる三幕の芝居である。

 果たしてこんなものにどんな価値があるのか、現代劇の脚本は近代文学なのかと考えてしまうところ。シェイクスピア作品は戯曲であった。第一次『新思潮』の小山内薫らは、近代演劇の確率に尽力した。短すぎる芥川作品や長すぎる夏目漱石作品は戯曲への翻案は難しかろうが、三島由紀夫だって戯曲を書いている。……いや、そうではなく「文学士と姦通する・しない」のお芝居が近代文学なのかと考えてしまうのだ。

 実は「この手」の「文学士と姦通する・しない」の話が谷崎にはどっさりある。もういいよ、「この手」は、と思わず言いたくなるほどある。それは佐藤春夫とのいざこざの虚々実々を絡め、わずかにパターンを変化させるも「マンネリ」と言われかねない程度に繰り返され、観客には大いに受けた

 私はむしろその「観客には大いに受けた」ことに戸惑う。『海辺のカフカ』の舞台化を認めた村上春樹さんにも戸惑った。正直『春の海邊』なども、文字を読まないで芝居を見せられてもどこが面白いのか解らないのではないかと思う。

 少々饒舌であっても、谷崎作品は文字であってこそ面白い。この小説は、マゾヒストの不可能性を突き詰めようとした作品であり、マゾヒストを歓喜させる作品ではない。美しい、論文のような小説である。しかし薄っすら西洋への憧れが描かれる他は、全く近代的ではない。時代から隔離されたかのような性欲があるだけだ。それも含めて近代文学だと粘ってみてもつまらない。

 次に書かれる『金色の死』は、『饒太郎』にいや増して「論文のような小説」であり、いくつもの奇妙な仕掛けを拵えている作品である。
 その筋は、「私」の少年時代からの友人、岡村君が三井岩崎の半分ぐらいはあるという財産を使い果たして、仙石原から乙女峠へ通う山路を少し左へ外れた盆地二万坪を芸術の天国に作り上げ、全身に金箔を塗りたくって踊り狂った挙句死んでしまうというものだ。ラオコオン論争にふれながら、視覚芸術(空間芸術)と言語芸術(時間芸術)の区分に挑み「ボクヲシンヨウシテハイケマセン」というメッセージを忍ばせる。

 そしてちょっと油断をすると谷崎は『お艶殺し』などを書いてしまうのだ。これはまた江戸時代を舞台にした刃傷沙汰の芝居だ。当時の谷崎潤一郎という作家の代表作として広告が打たれ、舞台に掛けられて大盛況だったようだ。岸田春雨によって明治より大正へかけての一大傑作と絶賛されている。岸田春雨って誰? という人もいようが芥川も褒めている。悪の華を育てていると褒めている。ほかにも病的傾向、惡魔主義的傾向を褒める人がいる。谷崎の思うつぼだ。

 しかしそれは時代性から隔離された谷崎潤一郎個人の嗜好の話であって、やはり『お艶殺し』は人情本、江戸後期の戯作本なんだけどな、とこっそり文句を言っても、この声は何処にも届かない。そもそも『新思潮』と戯作を区別する明確なものが見つからないからだ。無論これは近代文学とはそもそもなんなのかという根源的な問いの、ある側面でもあり、ある側面でしかない。ラーメンと言い、つけめんと言い、まぜそばという言葉遊びの問題ではない。そう言えばグラタンとサラダ以外でマカロニを食べないなという時代性の話だ。アラビアータがペンネである必然性に対する問題提起だ。マカロニにスパゲッテイを通してゆでても結局バラバラになるんじゃね、という程度に無益な議論だ。岸田春雨を画像検索すると春雨サラダばかり出て來るという絶望的な状況の中で、それでも次にいこう、次。





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