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三島由紀夫『午後の曳航』を校正する 『午後の曳航』を読む

 三島由紀夫の『午後の曳航』に続きがあるという話を読んで、改めて作品を読み返してみた。相当久しぶりに読んだので、随分いろいろなことを思ったのだが、どうにもまとまらない。まとまらないながら気になることをメモしておく。そうでもしないとたちまち何もかも解らなくなる。そして私という存在などあっという間に正体不明になる。そうなる前に記録しておく。それが何か意味あることだと信じているから。

ホーム・ワイン ブィヤベーズ?


 第二部第三章にこんな記述がある。

店の自慢のホーム・ワインで、二人はブィヤベーズを喰べた。

 今だと「ホーム・ワイン」は「ハウス・ワイン」じゃないかと思える。当時の感覚が解らない。そういう言い回しがあったのかどうか。三島の場合店に出入りしてボーイと会話した実地の知識だろう。三島が出入りしていた店で、そういう言い回しがあったとしたら、それはそれで直す必要はないが、ちょっと気になるところである。

 しかし「ブィヤベーズ」の発音は「ブゥーリャァベェィス」あるいは「ブゥーヤァベェス」で最後は濁らない。これは直した方がいい。ネイティブの発音を聞いてみると、英語のthのように聞こえる。

 ニュー・オルリーンズはニューオリンズだろう。コカコーラを可口可楽と書くなら、サンパンは「舢舨」と書いた方が伝わりやすいかも。「港を見下ろす丘の公園のベンチに」とあるも、『午後の曳航』が刊行されたのは昭和三十八年、前年に「港の見える丘公園」が開園されているので、ここは素直に「港の見える丘公園」でよかったのではなかろうか。

 それからこれは案外肝に関わる話なので、ちょっとこだわってみると、

 二十歳の彼は熱烈に思ったものだ。
『光栄を! 光栄を! 光栄を! 俺はそいつにだけふさわしく生まれついている』(三島由紀夫『午後の曳航』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 と、ここで竜二が求めているのは飽くまで「光栄」である。これが第二章。ところが第四章で、

 私は何もしないで、しかし自分だけは男だ、と思って生きてきたんです。何故って、男なら、いつか暁闇をついて孤独な澄んだ喇叭が鳴りひびき、光りを孕んだ分厚い雲が低く垂れ、栄光の遠い鋭い声が私の名を呼び求めているときには、寝床を蹴って、一人で出ていかねばならないからです。(三島由紀夫『午後の曳航』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 と「光栄」が「栄光」に置き換わった感じがある。そして物語はこう閉じられる。

 竜二はなお、夢想に涵りながら、熱からぬ紅茶を、ぞんざいに一息に飲んだ。飲んでみてから、ひどく苦かったような気がした。誰も知るように、栄光の味は苦い。(三島由紀夫『午後の曳航』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 なるほど最後も栄光である。ただし第二部の第二章でも「光栄」が出てくるのだ。

 厚い胸にひそむ死への憧れ。彼方の光栄と彼方の死。何でもかんでも「彼方」なのであり、是が非でも「彼方」なのだった。(三島由紀夫『午後の曳航』『三島由紀夫集 新潮日本文学45』所収、新潮社、昭和四十三年)

 この「光栄」と「栄光」の問題は、どうも未整理な感じがするものである。全部「栄光」で良かったんじゃないか、と思える。

 『午後の曳航』における事実としての「午後の曳航」は第一部の終わりに、タグ・ボートに曳かれた洛陽丸として象徴的に描かれる。しかし第二部で竜二は陸に上がり、海と船とから切り離される。首領は「海は少しは許すべきものだよ」と言っていた。海から切り離された英雄・竜二を再び英雄にする行為を曳航と呼ぶなら、ここに無理に駄洒落をはめ込む必要はないかもしれない。


驚くほど『海辺のカフカ』


 校正ではなく、ここからは感想になる。改めて思うのは昭和三十八年の作品なのに、三島の視点は十三歳の登のところにあり、大人たちの描き方があまりにもステレオタイプでそのやり取りがあまりにも退屈でありながら、首領と一号二号三号たち、つまり十三歳の坊やたちの描き方が、まるで村上春樹の『海辺のカフカ』のようにリアルだということ。当時三島由紀夫はもう大人だ。理屈の上では三十八歳になる。それなのに、完全に十三歳の世界にいる。これはなかなか凄いことではなかろうか。こうしたことはなかなかできることではない。よくそういう感覚に戻れたなと感心する。

 また改めて思えばぼんやりとした戦後を描こうとして失敗した『鏡子の家』同様の時代を描きながら、確かに小さな火花を散らしていることに驚く。このことは三島文学を振り返るとき、重要なポイントではなかろうか。(むしろ『鏡子の家』は十五万部売れている。『美しい星』は二万部、『午後の曳航』も五万部しか売れていない。しかし私にはこの『午後の曳航』が確かに小さく成功しているように思える。『鏡子の家』は売り上げに関わらず酷評された。)

 生殖は虚構であり、したがって社会も虚構である、と登は考える。首領は生きているということは存在の混乱だという。大した達観ではない。ただ竜二を再び英雄に戻すために解剖するという発想自体は確かに三島由紀夫自身の被虐嗜好性を超えて刺激的なモチーフだ。

 無論、改めて読み直してみて、堂本正樹が読んだという実際の解剖に関する記述そのものは、むしろ蛇足であろうとは思う。『午後の曳航』の成功は、少年に解剖される大人の変態性欲の露出があったからではなく、十三歳の子供たちがその特権的な立場を利用して、堕落した大人を再び英雄に戻そうと刃物を用いる残酷さ、不気味さによるものであろう。むしろ解剖される大人の変態性欲が隠されたからこそ、一層少年らの残虐性が際立ち、いつのまにか英雄たらんと云う志を失ってしまった大人たちを怯ませたのではなかろうか。

 竜二は単なる船乗りだったが、この十三歳の少年たちの企みは、磯田光一が聞いたという「本当は宮中で天皇を殺したい」(『三島由紀夫 悲劇への欲動』佐藤秀明、岩波新書、2020年)という三島由紀夫の言葉にも通じるものだ。金閣寺は燃やされてこそ永遠の美を獲得する。三島は戦後になお英雄の復活を求めていた。

 だから解剖シーンも、そういうものがいかに三島的絢爛豪華な語彙に彩られているか見てみたい気持ちがするのも確かである。三島由紀夫がそういうものを露出したいと思っていたから見たいのではない。ジョン・アービングの『ウォーター・メソッド・マン』の対極にあるところのもの、沼昭三の『家畜人ヤプー』に見られるような去勢願望のようなものが、三島由紀夫の中にあろうがなかろうが、そんなことはどうでもよくて、竜二がどのように英雄になるのか、縦に裂くのか輪切りにするのか知りたいのだ。

 ちくわにキュウリを突っ込むのは勝手だ。しかしそれを輪切りにした瞬間、どこかから絶叫が聞こえることを人は覚悟しなくてはならない。磯辺揚げでさえそうしたものだ。ちくわを縦に半分にしている。

そして酒鬼薔薇的でないもの


 酒鬼薔薇君の事件が明かになった時、橋本治が真っ先に『午後の曳航』が現実化した、と書いていたように記憶している。それにしても『午後の曳航』が昭和三十八年、酒鬼薔薇君の事件は平成九年だ。実に三十四年もの間『午後の曳航』は奇天烈な作りごとに留まり、その意味を真面に受け止められてこなかったのでないか。
 しかし酒鬼薔薇君はまるで『午後の曳航』や『海辺のカフカ』を無視するかのように、『絶歌』においてさらに残虐な猫殺しのシーンを描き、自分のバイブルは『金閣寺』だと言い張る。

(責任年齢)
第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない。

 この法律を後ろ盾にして少年たちは解剖を企てる。しかし酒鬼薔薇君は既に十四歳になっていた。首領たちは酒鬼薔薇君に対して「おや、おや」と言うかもしれない。「一年遅かったようですね、それでは意味がない」と。そのロジックを嫌い酒鬼薔薇君が敢えて『午後の曳航』を無視したのであれば、ことさら大げさに猫殺しのシーンなど書く必要はなかったのに、彼は書いてしまった。酒鬼薔薇君が殺したのはたくましいが何もできない哀れな大人ではない。非力な少年少女たちだ。そのことを正当化するために、酒鬼薔薇君は『金閣寺』の「美を完成するための破壊」というよりシンプルなロジックを選んだものと思われる。

 そういう視点で眺めてみれば、『午後の曳航』で描かれているのは英雄の復活の儀式であり、十四歳未満の少年たちに与えられた特権のロジックであり、明らかに酒鬼薔薇的でないものがある。

 根本的な違いは明らかにサディストとしてふるまおうとする酒鬼薔薇君に対して、三島由紀夫がそのマゾヒストとしての性癖を隠しきれないことだ。そして橋本治の見立てに関わらず『午後の曳航』はまだその意味を真面に受け止められていないということにはならないだろうか。『光栄を! 光栄を! 光栄を! 俺はそいつにだけふさわしく生まれついている』と二十歳の時に信じた男が定年まで何もなさず、老害として生き、年金を貰い、寝床を蹴って、一人で出ていって近所を徘徊することから救うこと、その方法が十四歳未満の少年たちに解剖される以外にあることをまだ誰も示してはいないのだ。

 何もなさない罪を罰してくれる人もいない。むしろ何もなさないことを恥じることを忘れることが大人になることだと自分に言い聞かせて、人は生きている。『三四郎』や『トロッコ』が青春小説なら『午後の曳航』はアンチ青春小説といったところか。甘ったるい感慨は拒絶され、平凡な救いはない。あなたの罪は詳細に記録されている。メスはそのままあなた向けられている。


【余談】

 その残酷な解剖の描写は、輝く海洋や珍しい異国の風物の比喩が沢山で、さながらアラビヤン・ナイトの物語のように酔わせた。陰毛は真珠貝を包む海藻、男根や亀頭は回教寺院の円筒や屋根となって、金色の夕陽に燦然と煌めきながら裂かれ、剥かれる。荘厳なる崩壊による完成。(『回想 回転扉の三島由紀夫』堂本正樹、文藝春秋、2005年)

 『午後の曳航』の結末について原稿を見せられたという堂本正樹はこう書いている。ちょっとヒントが多すぎるが、書いて書けなくはないなという感じがする。しかしあれこれ考えて、書くのは躊躇している。

とか、

とか、余り売れないので。




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