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「ふーん」の近代文学25 汁粉はぜんざいか

 三島由紀夫が最後の最後におしるこ万歳と言い出したことはよく知られていよう。それは自分が太宰と同じだと認める発言である。ところで夏目漱石と芥川の間、芥川と谷崎の間、芥川と太宰の間、織田作と太宰の間ではぜんざいと汁粉が奇妙に捻じれて見える。

「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに出たが、その祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎より先へ死んで宜いい訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩竹刀を持って裏の卵塔婆へ出て、石塔を叩いてるところを坊主に見つかって剣突を食ったじゃないか」と主人も負けぬ気になって迷亭の旧悪を曝あばく。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この汁粉のネタからして漱石は汁粉が好きそうである。 

 北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 ここを見てもそうだ。

 この「汁粉、お雑煮」が鳥取では同じものになる。松山の雑煮は澄まし汁だが、香川ではあん入りの餅が入った白みそのお雑煮が出る。

 余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁えぬ。汁粉であるか煮小豆であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅かなる閃きのうちに思い出す。

(夏目漱石『京に着ける夕』)

 これは米が稲から採れることを知らなかった式の理窟だろうか。汁粉は食うがぜんざいは食わないということか。よく分からない

 二人(中村是公と夏目漱石)は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。その時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちゃごちゃに攪き交ぜて、そのうちから二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭若干そくばくを引いて、あまる金を懐に入れて、蕎麦や汁粉や寿司を食い廻って歩いた。共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。

(夏目漱石『永日小品』)

 夏目漱石にとって汁粉は好物の上位に来るようだ。

 それでも彼は時々健三を伴つれて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜んだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫さんとを伴れて、賑かな通りを散歩した帰りに汁粉屋へ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らは碌ろくに顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。

(夏目漱石『道草』)

 漱石は完全なる下戸ではないのでこの「彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜んだ」というのはあくまでも健三の話ではある。しかし漱石が甘いものを好んだのは事実である。

 久保田万太郎君くんの「しるこ」のことを書いてゐるのを見み、僕も亦「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。震災以來の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋やらしい「しるこ」屋は跡を絶つてしまつた。その代りにどこもカツフエだらけである。僕等らはもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛つた「おきな」を味はふことは出來できない。これは僕等ぼくら下戸仲間の爲には少すくなからぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲にもやはり少なからぬ損失である。

(芥川龍之介『しるこ』)

 下戸の芥川は昭和二年五月七日にこんなことを書いている。

 ここにわたしは引っかかる。

 何故京都でぜんざいを食べないのか不思議なのである。いや、そうではなくて芥川が「しるこ」のことを書きながら漱石の『京に着ける夕』に一言も触れていないのが何か気になるのである。

 自分の誕生日に当てつけのように死んだ芥川に対して、谷崎潤一郎は昭和三年の『卍』で何かをぶつけたような気がしていたが、それは「ぜんざい」ではなかっただろうか。谷崎は『卍』の主人公に汁粉ではなくぜんざいを食わせる。

 太宰の作には『人間失格』『弱者の糧』『虚構の春』『正義と微笑』『乞食学生』『黄村先生言行録』『散華』そして『如是我聞』としばしば「おしるこ」が出てくる。あるいは近代文学において最も「おしるこ」に言及してきたのが太宰治なのだ。

 その「おしるこ」は芥川にいわせれば損なわれた汁粉だ。永井荷風が記録しているように、「おしるこ」は次第に葛湯のような正体不明なものになる。

 永井荷風?

一月十九日。晴。寒甚しからず。荷物を解き諸物を整理す。省線停車場前に露店多く出づと聞き午後行きて見る。京成電車踏切近くなる門構の家に汁粉一圓四十五錢との貼札出せるを見、入りて食するに片栗粉を團子のやうになし汁は薄甘き葛湯なり。汁粉といふ語も追々本來の意を失ひ行くものゝ如し。

(永井荷風『荷風戰後日歴 第一』)


 つまり……織田作之助の『夫婦善哉』『大阪発見』から考えても、どうも西は「ぜんざい」、東は「汁粉」であるばかりではなく、太宰の「おしるこ」と「ぜんざい」は別物で、「ぜんざい」は戦後も甘かったのではなかろうか。

「きょう日のように、なんでもかでもヤミヤミと、学校のカバンまでヤミじゃあ、こまりますな」
「銭にさえありゃあなんでもかでもあるそうな。甘いぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山のようにあるそうな」
 そういって歯のない口もとから、ほんとによだれをこぼしかけたところは、甘党らしい。

(壺井栄『二十四の瞳』)

「あはは……。ぜんざい屋になったね」
「一杯五円、甘おまっせ。食べて行っとくれやす」
「よっしゃ」
「どないだ、おいしおますか。よそと較べてどないだ? 一杯五円で値打おますか」
「ある。甘いよ」
 しかし砂糖の味ではなかった。そのことをいうと、
「ズルチンつこてまんねン。五円で砂糖つこたら引き合えまへん。こんなちっちゃな餅でも一個八十銭つきまっさかいな。小豆も百二十円になりました」
 京都の闇市場では一杯十円であった。

(織田作之助『神経』)

 まあ銭次第ということか。

 そう考えると漱石が「余はいまだに、ぜんざいを食った事がない」のもあながち嘘ではなかろう。正岡子規も芥川龍之介もぜんざいを食べないまま死んだのだ。ぜんざいに「ふーん」して死んだのだ。

 だから太宰もおしるこやには行くもののぜんざい屋にはいかない。ぜんざい万歳では格好がつかない。夫婦汁粉では何だか生々しい。文学的にはぜんざいと汁粉は別物だ。

 しかし三島のおしること太宰のおしることはやはり同じものであろう。

 三島由紀夫はこう書いている。

 言語は必ず、対象を滅却させるやうに、外部世界を融解させるやうに「現実」を腐蝕するやうにしか働かないのである。

(「存在しないものの美学 — 『新古今集』珍解」『決定版三島由紀夫全集第三十一巻』新潮社2002年)

 罵倒名人太宰は『如是我聞』において、「おしるこ」を滅却した。

君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。

(太宰治『如是我聞』)

 三島由紀夫は太宰の『十五年間』が滅却している或物に気がついた。

真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措おいても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(後略)

(太宰治『十五年間』)

 そして三島由紀夫は「おしるこ万才」の代わりに「天皇陛下万歳!」と叫んで死んだ。 


 汁粉とぜんざいと雑煮の区別のつかない鳥取の人には到底解らない話である。


[余談]

 

 去年のクリスマス・イヴはどうして暮らしていたらうと思つて、こころみに去年の日記帳をひもとくと、一日家にいて、夕食は夫婦でウナギの蒲焼を食べてゐる。こんな家庭は家ばかりではあるまい。

(「社会料理三島亭」『決定版三島由紀夫全集第三十一巻』新潮社 2002年)

 はいそうです。

 紳士は、ふいと私の視線をたどって、そうして、私と同様にしばらく屋台の外の人の流れを眺め、だしぬけに大声で、
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
 と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
 何というわけもなく、私は紳士のその諧ぎゃくにだけは噴き出した。
 呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股で歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
 私はまんなかに取り残されてあるうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
 東京は相変らず。以前と少しも変らない。

(太宰治『メリイクリスマス』)

 この二人絶対できていると給湯室で話題になるレベル。


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