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芥川龍之介『羅生門』のよこしま

 『杜子春』のあまりにも「道徳的」な結びに対して、『羅生門』の結びはあまりにも救いがない。悪人が一人増えただけと見れば確かにそういう話になってしまう。しかし最初から最後までまるで救いがなく、ただ芥川の芸術至上主義が垣間見えたかと思える『地獄変』にも、どこか何かを「正そう」という正義感のようなもの、何かを徹底して拒絶する頑なな意志が見える。

 やや繰り返しにもなるが『杜子春』では、

「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」(芥川龍之介『杜子春』)

 …と、実際には言葉のみだが、黙っていたら命を絶ってしまおうと、かなり厳しい罰が宣言されている。杜子春は黙っていたとして、ただ命令に従った迄である。なのに殺されかける。ひやひやものである。竈門炭次郎なら「おれの両親が畜生道に落ちるわけがないだろう!」と意地を張っていたかもしれないのに。行われてはいないものの、峨眉山の仙人・鉄冠子のやろうとした裁きは実際には行われなかった架空のこととは言え、いかにも厳し過ぎるものなのだ。

 一方『地獄変』では、堀川の大殿様が絵師・良秀の娘をあっさり焼き殺して仕舞う。その理屈を話者はこう述べる。

 その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。先づ第一に何故なぜ大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすつたか、――これは、かなはぬ恋の恨みからなすつたのだと云ふ噂が、一番多うございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲らす御心算だつたのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口づからさう仰有るのを伺つた事さへございます。(芥川龍之介『地獄変』)

 これは芸術至上主義批判、そして屏風の絵を褒める結びは芸術至上主義の勝利と片付ける解釈はあれこれ見受けられるが、結果としてそういう解釈によって「曲(よこしま)」が攻撃されるというモチーフがどこかに消えてしまう。こう並べてみて初めて『羅生門』の下人の裁きが見えてこないだろうか。確かに下人は老婆の着物を剥いだ。それは泥棒である。同時に老婆に対する裁きでもあった。その後下人が何をしたかと書かなかったのは、芥川が罪人を増やしたかったのではなく、「曲(よこしま)」が裁かれることのみを望んだからではなかろうか。

 では芥川の「曲(よこしま)」とは何か。それは死者に対する尊厳を欠く事であり、父母に対する敬愛を失う事であり、芸術至上主義なのであろう。芥川はそうして邪なものを裁きながら、地獄へ落ちていく覚悟をもっていたのであろう。その覚悟を、いつかなかば諦めとして『或阿呆の一生』で芥川はこんなプロットで書き表したのではなかろうか。

十四 結婚
 彼は結婚した翌日に来々そうそう無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……(芥川龍之介『或阿呆の一生』)

 結婚という題名で、こんな切ない話を書かねばならぬほど、小説家という職業は貧しいものである。新婚の妻が買ってきた黄水仙を詰るなど、おおよそ人間のするべきことではない。これほど「曲(よこしま)」なことはなかろう。伯母(養母)に云われるままに、嫁に小言を云うのも「曲(よこしま)」である。『羅生門』で老婆の着物を剥いだ下人よりも、新婚の妻が買ってきた黄水仙を詰る芥川の方が「曲(よこしま)」であろう。それは己が芸術のために娘を焼き殺すは行為に等しい。良秀は縊れたが、その自死という運命を芥川も辿った。老婆の着物を剥いだ下人の覚悟を、作者は本気で背負わねばならなかったのだろうか。








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