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芥川龍之介の『三右衛門の罪』をどう読むか① 仕掛けたのは誰なのか

 吉田精一という人は惨めな人だった。芥川作品の良さを見いだせず、例えば保吉ものを「私小説風身辺雑記」としてしか読むことが出来なかった。繰り返し書いているように『魚河岸』を除く保吉ものは失われたものを回顧の形で書くという形式を持っており、関東大震災の津波に流された阿蘭陀の風俗画じみた、もの静かな幸福に溢れてゐる鎌倉の風景を描いた『あばばばば』などは極めて大胆な構図を持った傑作の一つである。

 吉田精一の芥川評を有難がる程度の人にはそのことが絶対に理解できないものらしい。

 ではその吉田精一が『三右衛門の罪』について何と書いているかと言えば、これが恥ずかしい。「心理的テエマをもった」「ただそれだけの作品」「失敗作の一つ」……。

 馬鹿らしい。ではあなたは鎌倉の景色が津波に流されることと、店番の女の妊娠時期に気が付いていたんですかと問い詰めたい。もしや同じように『三右衛門の罪』に読み落としているところはありませんかと。

 無いよという人はちょっと手を挙げてもらっていいですか?

 じゃ、あるよという人。

 いやいやいや。

 ある、というには「そこ」が見えていないといけないわけですよ。見えていないでしょ。

 では「そこ」を知りたいよ、という人はいますか?

 知りたい?

 ならば何故知る方法を学ぼうとしない?

 多分この本一冊を読むだけで、随分違ってくると思いますよ。小説ってこう読むのかということが解ると思います。見本として、ざっとこんな形で示した通り、

 健三は捨て子だ、と気が付いていなかった人は少し反省してください。

 で、『三右衛門の罪』がどういう話かというと、……今回は一日寝かします。

[問①] 数馬は何故細井三右衛門を闇討ちしようとしたのか?

[問②] 加賀の宰相治修が聡明の主とはどういうことか?

[問③] 柳瀬清八は何故射殺されたのか?


 こんなことをじっくり考えて行きたいと思います。

 その前に一言。素人に説教をたれる坊主は何を以て偉そうにしているのか。解脱、悟りを目指さない坊主に何の値打ちがあるものだろうか。檀家から金を巻き上げることしか考えていないで、解脱・悟りを目指していないような坊主は全員地獄に行くべきであろう。

 悟らない坊主はただの禿げである。





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